小白竜窟物語

ホームページへのアクセスが4万ヒットを達成した記念として、パイオニアケイビングクラブ会誌「もぐららいざあ」Vol.1(1984年8月19日発行)に掲載されたものを加筆・修正して転載します。奥多摩での新洞探索ドキュメントです。(2002年10月17日)

1.新洞情報!

すべての始まりは、ある極秘情報を入手したことからである。そして、それは1983年の春のことであった。
日本ケイビング協会(現在は日本洞窟学会に統合されています)の関東支部連絡会に出席した芦田が、ケイビング界では、その人ありと知られている──『奥多摩の神様』という異名を持つY氏と接触したときに、その神様から教えてもらった情報であった。
その情報とは──。
──数年前、まだ『倉沢鍾乳洞』が観光洞だったころ、そこの管理人さんに、あるケイバーが『倉沢鍾乳洞』以外の洞穴について尋ねたことがあった。たいして期待してはいなかった。ちょっと聞いてみようかなぐらいの軽い気持ちだった。
ところが、管理人さんは、そのケイバーにとんでもない話をもらした。「対岸の山の中に『一本杉の穴』と呼ばれる『倉沢鍾乳洞』よりも、おもしろい穴がある」というのだ。
この話を聞いたケイバーは飛びあがった。対岸の山に洞穴があるというだけなら、これほど驚きはしなかったであろう。実際に『対岸窟』とか『林道の穴』などと言われている小規模な洞穴が存在していたからである。
しかし、「『倉沢鍾乳洞』よりも、おもしろい」という形容がつくと、話はまったくとんでもないものとなる。
『倉沢鍾乳洞』は決してスゴイ穴ではない。だが、それなりに楽しめる洞穴である。測線延長およそ1300m(1983年時点ではPCCの新支洞探索の努力により、1600mを突破していたと思われます)と言われるその規模は、関東では『三又洞』の3300mに次いで第2位(2002年9月時点では、豆焼沢・瀧谷洞に次いで第三位です)である。
つらら石や石筍などの鍾乳石はほとんどなく、また、泥がずいぶんと多くて、おせいじにも美しいとは言えない鍾乳洞であるが、支洞や枝支洞が複雑に入り組んで多彩な迷路を形成しており、ケイビングそのものに関しては、非常に大きな満足を与えてくれる洞穴である。
シーズン中には、いくつものパーティーが同時に入洞することも珍しくないところなのである(倉沢鍾乳洞は1998年より入洞禁止措置がとられ、2002年9月時点でも入洞禁止措置は継続中です)。
したがって、「『倉沢鍾乳洞』よりも、おもしろい」というからには、その『一本杉の穴』は、規模か美しさか他のなにかで『倉沢鍾乳洞』よりも勝ってなければおかしい。
もし本当に、そのような洞穴が奥多摩に存在するとしたら、これは大ニュースである。ケイビングを志す者なら、よだれが出るような話である。
というわけで、そのスゴイらしい洞穴──『一本杉の穴』の探索が、その神様ケイバーの所属するクラブによって、都合3回行われた。だが、それらしき洞穴は発見できず、目印の一本杉も確認できないまま、探索は打ち切られてしまった。
大規模な探索にも関わらず、まったく成果が上がらないため、『一本杉の穴』の存在を疑問視する意見が多くなったからである。さらに管理人さんの話以外、他にその存在を証明する情報がなく、その管理人さんも『倉沢鍾乳洞』が観光洞でなくなると同時にいなくなってしまい、再度、話を聞くことが不可能となったからである。
結局、『一本杉の穴』の話は、ガセネタだろうということになり、その後、この穴を探索する者もグループもなく、ケイビング界からは忘れさられようとしていた──。
──これが『奥多摩の神様』──Y氏より芦田が聞いた情報のすべてである。確かに情報というには、あまりにも信憑性が低すぎた。ガセネタの可能性が大であった。しかし、倉沢谷周辺をホームフィールドにしていたPCCは『倉沢鍾乳洞』の対岸の山で洞穴探索を行うことに決定した。
そして、この活動が、この後、半年間にわたって遂行され続けた『小白竜計画(プロジェクト・シャオパイロン)』の発端となったのである。

2.新洞探索!

1983年5月──ゴールデンウィークにPCCの4名──芦田、斉藤、白幡、廣瀬による第3次倉沢谷洞窟探索が決行された。倉沢谷では、これまでに2回の洞穴探索を行っていたが、とくに目標があったわけではなく、怪しそうな沢すじや崖を探索していたに過ぎなかった。
しかし、この第3次洞窟探索には、はっきりとした目標があった。それは洞口付近に目立つ一本杉がある鍾乳洞──『一本杉の穴』を探しだすということである。
一応、『倉沢鍾乳洞』の対岸の山ということで、探索地域をずいぶんと限定できるが、それでも、たった4人の人間で探索するには広大すぎる地域であった。目印となる一本杉も、深い木立の中では探しだすことは実質的に不可能であった。一本杉は、あくまでも洞穴を発見したときの事後確認の役に立つだけのものである。
したがって一本杉の穴を発見できる可能性は、きわめて少ない──ほとんど不可能に近いといっても過言ではなかった。しかし、PCCの4人組は、その不可能事に、あえて挑戦をした。
ベースキャンプを『倉沢の水穴』の横に設営し終えると、すぐに『一本杉の穴』の探索活動を開始した。まず、2人ずつ2チームに分かれ、白幡、廣瀬が先行して、山狩りを始めた。一方、芦田、斉藤の方は倉沢の集落に足を運び、ヒヤリング(聞きこみ調査)を行った。その結果、1人の老人から耳よりな情報を聞きだすことに成功した。
──杉が目印の洞穴なら、確かに存在する。それは今はすっかり忘れられてしまっているが、江戸時代のころは、村の信仰の対象となっていた 洞穴で、『倉沢鍾乳洞』が発見されるまでは、村人がよく参拝に行っていたという。実際、『倉沢鍾乳洞』の方も洞内に石仏などがあり、信仰の対象となっていたと思われる。そして、その洞穴には、とくに名まえはついておらず、村人たちは、ただ単に『御神仏』と呼んでいたとのこと。この『御神仏』への道は、今はもうなくなってしまっているが、『倉沢鍾乳洞』より300m下流にあるガレ沢を20~30分登った地点にある──。
芦田、斉藤は貴重な情報をくれた老人に礼をのべると、ただちに、そのガレ沢に向かった。途中、トランシーバーによる定時連絡で、白幡、廣瀬の両人にも知らせ、探索地域の分担を決定した。芦田と斉藤が先行して、ガレ沢のすじ沿い及び、右岸側の山腹を探索することとなった。ただ、このガレ沢は第1次倉沢谷洞窟探索のときに約20分ほどは登って調査をしたことがあったので、その範囲の探索は省略することとなった。
さらに芦田と斉藤は、それぞれがトランシーバーを携帯していたので、別行動をとることにした。すなわち、沢すじを斉藤が担当し、左側山腹を芦田が探索することとしたのである。こうして30分おきにトランシーバーで連絡を取り合いながら探索を進めるが、『一本杉の穴』らしい洞穴はなかなか発見できない。白幡、廣瀬組も30分遅れで到着し、探索に加わるが、やはり成果はなかった。
陽が西に傾き始めたころには探索範囲も相当に広がり、芦田は尾根すじに達してしまっていた。予定していた探索範囲をはるかに越えて、山を登り過ぎてしまったのである。引き返そうとして山を下りかけたとき、木立を通して数十m先に大きな白亜の壁──石灰岩の崖を見いだした。
せっかくなので、ついでにこの崖の付近も探索してみることにした。尾根を一つ越えたこの辺りに『一本杉の穴』があるとは思えなかったが、他の洞穴がある可能性が高いと判断したからであった。そして、その判断の正しかったことが、すぐに証明された。
その崖の下に達した芦田は思わず足を止め、石灰岩の壁をふりあおいだ。5月といえば、気温の方も相当暖かく、洞穴を探して山の中を歩き回れば、すぐに汗だくになってしまうような陽気である。実際、芦田は急な斜面を登り終えたばかりで全身汗まみれとなっていた。
ところが、その崖の下に立ったとたん冷房にあたったかのように汗が、すぐにひいてしまったのである。その地点が他の場所に比べ、異様に涼しいことがはっきりと感じられるのである。崖の上方より冷気が降りてきているようであった。
芦田は急斜面と岩場からなる崖をフリークライミングで登り始めた。手がかりになる雑木や足場になる岩がけっこうあったおかげで、それほど苦労せずに登ることができた。そして、上に登るにつれて涼しさも増してくる。
もうまちがいなかった。上方に冷気を吐き出す洞穴が口を開いているのである。この冷気の強さから判断して、相当な規模の洞穴に違いない。洞口から吹き出す冷気の強さと洞穴の規模は、ある程度比例しているからである。
フリークライミングで登ること約20m。突然、芦田の目の前に1m四方の洞口が出現した。そこからはクーラーのように勢いよく冷気を吹き出していた。洞口から洞内をのぞいてみると、一応、奥が続いているようであった。人の入った形跡が、まったく見られないところから新発見の洞穴にまちがいない。
ちょうど定時連絡の時間になったので、トランシーバーで斉藤、白幡、廣瀬の3人に新洞穴発見の報と、その所在地を知らせた。全員が集まるまでの間、その洞口付近を探索した芦田は、さらに3つの洞穴を発見し、そのうちの2つからも、やはり風が出ていることを確認した。しかし、それらは最初の洞口ほどは吹き出していなかった。
1時間後、山中に散っていたメンバー全員が芦田のトランシーバーと笛の誘導により洞口前に集合した。そして、全員、期待に胸を膨らませながら、冷風が吹き出す洞穴に踏み込んでいった。洞穴は10mほど入ったところで、上下に分かれ、それぞれが続いていた。
ここで斉藤が下の穴へ、白幡が上の穴へと同時に入ってしまったため、ちょっとしたアクシデントが起こった。白幡がパイナップル大の石を落として、それが斉藤のヘルメットを直撃したのである。幸いなことに斉藤は怪我もせず無事だったが、代わりにヘルメットをへこませてしまった。
ともかく洞内の状況は最悪だった。前人未踏の洞穴のため、落石するおそれが高く、非常に危険な状態であった。また、上下とも狭い洞穴で、行き先には転石が詰まっているため、それらの石を排除しなければ、奥に進むことも困難であった。それらの転石を排除するには作業の安全を考えれば、1人ずつ慎重に行動しなければならず、相当に時間がかかりそうであった。さらに日も沈み始めたので、奥への入洞は断念せざるを得なかった。
PCCは、この新しく発見した洞穴を『小白竜窟』と命名し、次の機会に改めて本格的な探検(転石排除を含む)を行うことを決定した。すなわち、これが『小白竜計画(プロジェクト・シャオパイロン)』の始まりである。
なお、最初の目的である『一本杉の穴』と思われる洞穴──『御神仏』は翌々日の洞穴探査で発見したが、50mほどの横穴で鍾乳石も洞窟珊瑚以外はほとんどなく、『倉沢鍾乳洞』と較べて論じられるような洞穴ではなかった。洞口付近には杉の木が3本立っており、そのうちの1本がやや太いが、はたして、この洞穴が本当に『一本杉の穴』かどうかは不明である。
事実、『御神仏』のことを教えてくれた倉沢集落の古老も『一本杉の穴』という名の洞穴はまったく知らず、洞口に杉があるということで『御神仏』を思いだしてくれたのである。したがって、この『御神仏』を『一本杉の穴』と断定することができない以上、別の名まえをこの洞穴に付けるべきであるということになった。というわけで、PCCは、この洞穴を『御神仏の穴』と命名することにした。

3.新洞探検!

1983年5月22日。PCCによって、『御神仏の穴』の測量と『小白竜窟』の探検が行われた。『御神仏の穴』の測量は午前中に終了し、午後には『小白竜窟』の方へ移動し、その探検を開始した。
この『小白竜窟』は、正確には4つの洞窟からなる洞穴群であり、『小白竜窟第一洞』、『小白竜窟第二洞』、『小白竜窟第三洞』、『小白竜窟第四洞』と呼ぶのが正しい。このうち、多少なりとも内部の様子がわかっているのは『小白竜窟第一洞』『小白竜窟第二洞』の2つだけである。
『小白竜窟第一洞』は発見時に行った探検で行き先が落石でつまっていることが判明しているし、『小白竜窟第二洞』は5mほどで行き止まりである。一方、『小白竜窟第三洞』は洞口に大きな石がはまりこんでいて、人間が入ることはできない。しかし、風が吹き出しているので、洞口を塞いでいる石を取りのぞく努力はすべきである。そして、『小白竜窟第四洞』は5mほど入ったところで、狭いクレバス状の縦穴になっており、その中への入洞は非常に困難である。したがって、まだ誰も入ってはいない。
結局、この日は時間の関係で、『小白竜窟第一洞』の奥につまっている石を排除する作業は行えず、『小白竜窟第三洞』の洞口を塞いでいる石を取りのぞくことにした。しかし、その石は予想以上に大きく、また、洞口付近の足場が不安定なために作業はなかなかはかどらなかった。日が暮れはじめたころに、ようやくその石を取りのぞくことができた。やっと入洞できると思ったのもつかの間、なんと、その下にもう1つ同じくらいの石がつまっていたである。
その石も最初の石同様、簡単には取りのぞけそうになっかた。少しだけ取りのぞく作業を行ってみたが、やはり時間がかかりそうだったので、次の機会にということになった。残念ながら、この日は終日、石どかし作業だけで終わってしまった。そして、この洞口突破作業の続きは秋にもちこされることになったのである。夏の間は草木が生い茂って、『小白竜窟』がある岩壁に近づくのが困難なためである。
──秋。草木が枯れはじめ、再び道なき山にチャレンジできる季節が到来した。1983年9月──21日から25日までの5日間、『倉沢鍾乳洞群』第15次探検ケイビングが行われた。春にやりとげられなかった『小白竜窟第三洞』の洞口突破作業は中日の24日に行うことになった。
倉沢林道から30分かけて、山の中を登ると、『小白竜窟』にたどり着くことができる。今回は石を引き上げるためのロープも準備してきていた。そのおかげで、さしもの難工事も悪戦苦闘すること3時間で、ついに成就した。さっそく『小白竜窟第三洞』に入洞する。当初の予想どおり、『小白竜窟第三洞』の洞内は『小白竜窟第四洞』のクレバス状縦穴の下に通じていた。さらに5mほど下に降りたところで狭くなって入洞できなくなっていた。はたして、この狭い空間は『小白竜窟第一洞』とつながっているのだろうか。
ともかく、今回の探検によって、『小白竜窟第三洞』と『小白竜窟第四洞』は同じ洞窟であることが判明したので、『小白竜窟第四洞』の呼称は廃止され、『小白竜窟第三洞』に編入されることになった。
この日は『小白竜窟第一洞』の探検──最奥部の突破作業も行う予定であったが、午後になって雨が降りだしたので、早々にベースキャンプに戻ることになった。

翌月(10月)の8日から10日まで『倉沢鍾乳洞群』第15次探検ケイビングが行われ、最終日の10日に『小白竜窟』への4度目の探検が試みられた。この日の目標は『小白竜窟第一洞』の奥につまっている落石を排除して、最奥部へのルートを開口することである。
『小白竜窟第一洞』は入口から10m付近で上下に分かれているが、風が吹き出してくるのは上の穴からだったので、上の方を主洞と想定し、そちらの奥を延ばすことにした。しかし、その上方に続く穴は、人1人がやっと入れるぐらいの大きさしかなく、つまっている石を取りのぞくには、そこに入る人間が石を下の分岐まで持って降ろさなくてはならなかった。
人数がいても、実際に作業できる人間は1人だけのため、結局、この日の成果は行き先を約5m延ばし、『小白竜窟第一洞』の総延長を30mにしただけだった。しかし、その奥からは、依然、強い風が吹き出していた。

さらに翌月(11月)の27日。PCCは『小白竜窟』に5度目のアタックを敢行した。『小白竜窟第一洞』は前回までの作業によって縦穴部分での作業は終わり、横穴部分での作業となっていた。そして、この日は、そこをまた5mほど延ばし、やや広い空間に出ることができたが、その先は再び狭洞となり、左へカーブしていて入洞不能であった。
そこを突破するには、ハンマーとタガネを使って岩壁を削らなければならない。はっきり言って、それは非常に困難な作業である。1日や2日くらいでは、とても通れるようになりそうもない。ここに至って、PCCは大きな決断を迫られることになった。
このまま突破作業を続けるか、あるいは一時、作業を休止するか──ディギング(狭洞及び埋没洞の突破作業)には大変な労力と時間を必要とする。そして、そのディギングをしなければならない箇所は、ここだけではない。他にも多くの場所がリストアップされているのである。『倉沢鍾乳洞』内の『くものぼり』、『上層部新洞』、『下層部新洞』や『倉沢のもぐら穴』、『RX-83』(仮称)、『大沢の熊穴』、『大日の霊窟』など、数え上げればきりがない。
ともかく、実働メンバーが少ないPCCには、大きな成果が得られないのに同じ洞穴を何度もディギングする余裕などはなかったのである。やむを得ず、PCCは『小白竜計画(プロジェクト・シャオパイロン)』の凍結を決定した。中止ではなく休止である。中止としてしまうには、あまりにも惜しいのである。奥多摩にある数多くの洞窟の中で、これほど強い風を吹き出している穴は他に類を見なかったからである。しかし、この一時休止の決定は半年後に撤回されることになるのであった。

1984年4月29日──『倉沢鍾乳洞群』第28次探検ケイビング。今回、初めて『倉沢鍾乳洞』がある方の山──『小白竜窟』の対岸の山で洞穴探索が行われた。残念ながら、その探索ではほとんど成果を得られなかったが、『小白竜計画(プロジェクト・シャオパイロン)』の再開に貢献する重大な情報がもたらされた。
『小白竜計画(プロジェクト・シャオパイロン)』が凍結された主な理由はディギング作業の困難さにあったが、それだけなら決して作業を中断したりはしなかったはずである。それよりも、その困難さを突破しようという情熱が失せたことの方が大きかった。狭洞部分を突破できても、その奥に続く洞穴空間は小規模なものではないかという疑惑がプロジェクトメンバーの中に生じていたからだった。
その疑惑の根拠は『小白竜窟』の標高にあった。鍾乳洞が形成される過程において、地下水流は重要なファクターである。そして、同一地域内では地下水位は同じレベルを刻むことになる。すなわち、同一地域内で形成される洞穴も同じ標高に限定されることになるのである。『小白竜窟』は標高900m──奥多摩の洞穴の平均的な標高は700m前後であるから、それらより200mも高いことになる。
さらにプロジェクトメンバーの間で『小白竜窟』の洞口がある岩壁の上が山の頂上に近いと錯覚されていたのである。そして、山の頂上近くには大規模な横穴は形成されない──『小白竜窟』の規模もあまり期待できないという論法がまかり通っていたのである。地形図を見れば、山の頂上はずっと上のなであるが、現場での「視覚的」な雰囲気ではすぐ上に頂上があるように思えてしまったのである。
ところが、今回の『倉沢鍾乳洞群』第28次探検ケイビングにおいて、その疑惑をふりはらう重大な発見がなされたのである。対岸の山の上から見た『小白竜窟』の位置が「山の頂上近く」ではなく、それどころか中腹よりも低い位置であることが「視覚的」にはっきりと確認されたのである。「山の頂上近く」という錯覚の原因は、洞口の右上方にある尾根すじにあったことが判明した。
これにより、プロジェクトメンバーは『小白竜窟』の奥に巨大洞穴がある可能性を非常に強く感じられるようになり、再び『小白竜窟第一洞』の最奥部突破への意欲が湧き起こった。こうして、『小白竜計画(プロジェクト・シャオパイロン)』は復活した。だが、季節は再び夏に移っていたため、『小白竜窟』に近づくのは困難になっていた。結局、実際の作業──『小白竜窟第一洞』のディギングを再開するのは秋になってからということになった。
具体的に言えば、9月23日、24日に行われる『倉沢鍾乳洞群』第32次探検ケイビングにおいてである(この原稿は1984年8月に書かれたものです)。この2日間だけで、『小白竜窟第一洞』の最奥部を突破できるとは思えないが、年内突破という目標をもってアタックする予定である(『小白竜窟第一洞』の狭洞部分の洞壁は非常に硬く、手彫りによるディギング作業は断念せざるを得ませんでした。2002年10月現在、電動ドリルによるディギング作業を継続中ですが、未だ突破はなっていません)。そして、ぜひとも『小白竜窟』を大規模洞穴にして『白竜洞』と改名したいものである。

PCCは、今日も明日も未知なる新洞穴を求めて──さらに、それらに潜む神秘とロマン、そして、冒険を欲して、前進を続ける……。

注意!
倉沢鍾乳洞は、2002年9月時点では、入洞が禁止されています。

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