フランス石灰岩地帯探訪記

仕事の関係でヨーロッパに行った小堀会員が休みをとり、フランスの石灰岩地帯を巡ってきました。なかなか波瀾万丈の冒険記です。(2001年1月1日)

事前準備

パリ行きが突然決まったので、その後休みを取って、フランスの洞穴を見てくることにした。時間があまりないので、地球クラブの近藤氏から世界の観光洞というホームページを教えてもらい、フランスの観光洞を調べた。ウエブマスターはフランス人かどうかは分からなかった。紹介されている鍾乳洞の数は多かったが、あまり大した情報は載っていなかった。それでもどの辺に鍾乳洞が多いかはおぼろげながら分かった。12月ではほとんど閉まっていることも分かった。
東京スペレオクラブの後藤氏からフランスの探険教室のパンフレットを送ってもらい、国際電話してみたが「サポートの範囲外です」というテープが流れるだけだった。フランスに着いてからも電話してみたが通じなかった。今は廃業してしまったらしい。
ウエブマスターにも「今入洞できる適当な洞窟を紹介してくれ」という旨の英文のメールを送ったが返事はなかった。フロランにもメールを送ったが、当方がフランスに出発してから返事が届いていた。しかたないのでホームページに出ていた洞窟リスト(電話番号付)だけをプリントアウトした。
てな訳で、日本を出発する前には何も準備らしい準備ができなかった。
パリに着いてから、フランス全土の80万分の1、必要な地区の20万分の1、ローヌ流域のミシュランの観光案内書を買い求めた。フランス語は分からないが写真をみれば、どこにどのような穴があるか分かるからだ。

12月10日(日)曇り

パリリヨン駅を昼頃のTGVで発ってヴランスへ。なだらかに起伏した平凡な牧場地帯が続く。どこも羊を放牧している。しかし鉄道線路が切り通しになっている法面を見ると地表近くまで岩石になっていた。土壌の層は意外と薄い。
ヴランスで鈍行に乗り継ぐまで1時間以上あったので町を歩いてみる。町を突き抜けた所にある公園から全山石灰岩の山がよく見えた。頂上にはいかにもフランスらしく半分壊れかかったお城が建っていた。近くの人に「あの山に鍾乳洞はあるか」と聞いてみたら「ない」とのこと。逆方向(東側)のグルノーブルの方の山を指差して「鍾乳洞はあっちの山だ」とのこと。
明日はアルデッシュ峡谷をタクシーで回る予定なので、タクシー代を安くするため、峡谷の入り口に一番近い田舎駅まで鈍行で行く。もう真暗になった18時過ぎに目的の駅ピエールラッテについた。
駅前は真暗。これでホテルがあるのか心配になった。数人降りた客の1人に「ホテルどこ」と聞いたら「着いて来い」という仕種をするので着いていった。10分ほど歩いたら町並に入った。それでもホテルが4~5軒あった。入り口に値段表の出ているホテルに入った。日本で言えば、さしずめ田舎町の商人宿という感じのところだ。
それからが大変だった。明日一日タクシーを借りてアルデッシュ峡谷と周辺の鍾乳洞を回りたいので、タクシーの手配をしてもらいたいという意思をマスターに伝えるのに一苦労した。こちらの片言の英語では通じない。そのうち「妻が食事だと催促しているので失礼」と言い残して奥に入ってしまった。
いったん部屋に入り、辞書と首っ引きで英語で紙に書き出し、またフロントに持っていった。こんどは意味が分かったらしく電話してくれた。ハイヤーの契約になるので料金は1200フラン(18000円)で運転手の昼食は客持ちという条件だった。それで頼むことにした。
レストランで食事した後、BARなる看板の出ている店に入って飲物を注文したが、当方の発音が悪いらしくてんで通じない。カウンターの中に入って瓶を指差したらうなずいて作ってくれた。それを飲んでいたら近くの若者がグラスをカチンとぶつけてきた。歓迎という意味だろう。言葉が通じないのでお互いに無言だが、笑顔は分かった。

12月11日(月)晴れ

アルデッシュ川は北から南に流れるローヌ川に西側から注ぐ支流だ。約30kmにわたって両岸100mから300mの石灰石の岩壁が続く峡谷をなしている。大きな石灰岩台地がアルデッシュ川によって切り裂かれたような構造をしている。
朝8時にタクシーを呼んで、いよいよアルデッシュ峡谷へ。8時というとまだ薄暗かった。運転手は英語が話せないとのこと。こりゃ先が思いやられる。運転手に回りたいコースを地図で指差し、鍾乳洞の電話番号リストを渡して、ここに電話してくれと身振りで頼んだ。分かったというような仕種をしたので出発。
峡谷の入り口まで30分ほど平地を走ったが霧が濃い。しまった時間が早すぎたか。時間調整のため近くのカフェに入り30分ほどつぶした。その間、アルデッシュ川がローヌ川に注ぐところが滝になっているという英文の説明書(ホームページから印刷したもの)を示して「ここにも寄ってくれ」と頼んだが、意味が分からないらしく素通りされてしまった。
一向に霧が晴れないので仕方なく出発。いよいよアルデッシュ峡谷の入り口の吊橋にさしかかった。俄然、石灰岩の大きな岸壁があらわれた。胸が高鳴る。ここにも岩壁の上に壊れた城が建っていた。時間も9時を回っていたので運転手が各鍾乳洞へ電話してくれた。残念ながら、どこも閉まっているとのこと。これにはガックリ。
峡谷に入ると完全に霧に覆われていて何も見えない。初めは谷底を走っていたが徐々に高度を上げ峡谷の縁を走るようになった。峡谷の中は一面の霧で覆われ見えない。途中にある鍾乳洞にも寄ってくれたが、どれも入り口が閉まっていた。
要所要所の展望台で止まり写真を撮れのジェスチャーをする。本来なら深く切れ込んだ雄大な谷が見えるはずだが。ゆるく起伏して果てしなく続く石灰岩台地上の山しか見えない。谷を埋めた霧に2人の影が映りその回りを虹が取り巻いていた。それを指差して「ブロッケンモンスター」と言ってみたが、通じなかった。フランスでは別な言い方をするのかも知れない。
また徐々に谷底に降りてゆき、いくつかの石灰岩のトンネルを抜けると、この峡谷最大の呼び物であるポンダルクという天然橋だ。これも霧の中にかすかにシルエットが見えるだけ。これでは写真をとろういう気すら起きなかった。それを通りすぎて、しばらく行くとポンダルク村。
フランスの典型的な小集落なのか、道は狭く曲がりくねっていたが、教会と広場は揃っていた。観光地なのでホテルの数が多い。しかし、今は皆閉まっていた。人通りもほとんど見られない。
ここで引き返すものと思っていたが、更にぐんぐん奥地に向けて走って行く。どこへ連れて行くのだろうと気になったが、黙って乗っていた。約10km上流のロームというところにも立派な石灰岩壁に囲まれた渓谷があった。ほぼ等間隔で水平な地層の入った石灰岩だ。高さは50mぐらいか。石灰岩をくり貫いたトンネルが連続し、川に面した面が大きく開いているので景色も良い。そのトンネル群が尽きたところで引き返すことになった。
ポンダルク村で昼食をとることにしたがレストランが全部閉まっていた。村中探した挙げ句やっと1件のホテルのレストランが営業しているのを見つけた。メニューがフランス語なので内容もよく分からない。適当に運転手の勧めるものを頼んだ。たのんだ覚えのないワインのボトルもついてきたのでびっくり。フランスでは食事に飲物(アルコール)をつけるのは当然のことらしい。運転手も平気な顔で飲んでいた。
英語が通じないので、和仏・仏和が一緒になったポケットサイズの辞書を間において、その単語を指で示して運転手と会話した。一つの会話をするのに15分ぐらいかかる。なんとも骨が折れる。
帰りも峡谷が見えないのでは来た意味がないので、「霧、晴れる、待つ」という3つの単語を紙に書き出して示したら意味が分かったらしく、店の人に何時頃かと聞きに行っていた。まだ2時間は待たなければならないとのこと。
午後2時に出発。ポンダルクに着いたら、今度はよく見えた。自動車道路からでは離れすぎているので、歩いてポンダルクの根元に行ってみた。かなりの威圧感がある。アーチ部分の大きさは高さ30m、幅40mぐらいか。橋体そのものは高さ60m、幅100mぐらいか。もうかなり浸食を受けていて橋体そのものにもたくさんの穴があいていた。
水面近くにある、やっと人一人が立って歩ける程度の穴に入ってみた。何も装備を持っていないのでライターの光で進んだ。壁面には枯れ葉などが貼り付いていたので増水時には完全に水没するらしい。そのうち指が熱くなったので引き返してきた。もっとうろうろしたかったが、運転手が心配するといけないので自動車に戻った。
そこから少し走ったところの道路脇に阿哲台の諏訪洞ぐらいの大きさの未管理の穴があったので「引き返してくれ」と言いたかったが、フランス語でなんと言うのか分からず、その間に車はどんどん進んでしまった。
アルデッシュ峡谷がよく見える展望台で停まった。両岸は300mぐらいあるだろうか。石灰岩はロームほど純白でなく、やや茶色味を帯びていた。高度差の半分ぐらいまで垂直な崖で下半分は傾斜45度ぐらいの斜面になっていた。川が巾着田のように大きく蛇行しているところでは、もうじき川が短絡しそうなところまで浸食が進んでいた。
帰りは台地上の道を走ってみることにした。秋吉台のような起伏はなく、ほぼ平坦でローヌ川に(東側)向かって緩く傾斜していた。寂れた小さな部落を通過して右の脇道に入ったら竪穴のマルザル鍾乳洞があった。しかし、そこも閉まっていた。運転士が「マル、マル」と惜しそうに話しかけてくるが意味は分からなかった。ホテルに帰ってから辞書で引いたら火曜日という意味だった。「明日なら入れるのに残念だね」と言っていたのかも知れない。
ピエールラッテに16時頃戻った。なんと町の中に高さ50mほどの石灰岩峰がそびえているではないか。昨日は暗くなってから着いたので気が付かなかった。ホテルに荷物を置いてから見物に出かけた。人家に囲まれていて根元に行く道が分からない。付近の人に「あれに登りたい」と言ったら「登れない」とのこと。「ルートはどこか」と聞いたら、民家の間の細い道を指差した。それを進むと登り口に着いた。
昔は大きな館が建っていたらしく立派な門があり鉄格子の扉が閉まっていた。立入禁止とでも書いてあるのだろう。その日付は1971年になっていた。しかたがないので、その岩峰の根元を一回りしてみた。その門を避ければ岩にしがみついて登れそうなところもあったが人家から丸見えなのであきらめた。10分ほどで一回りできる程度の岩峰だ。しかし、岩は大分もろくなっていて、崩れそうな岩をアンカーやワイヤーで止めているところが沢山あった。人家が近すぎて落とせないためだろう。

12月12日(火)晴れ

ピエールラッテを8時頃の鈍行で出発。アビニヨンでTGVに乗り換え。カルカソンヌに13時過ぎに到着。さっそく駅前の公衆電話から15kmほど北東にあるリモース鍾乳洞に電話。フランス語で出てきたが構わず、用意してきた英語の声明文(日本からはるばる来たのだから見せてくれ)を読み上げる。しかし、最後に聞こえたのは「ノン」だった。
ここもホームページ情報では開いているのは4月~10月で予約が必要となっていた。予約すれば当然断わられるだろうから、ぶっつけ本番の泣き落とし戦術でやってみたのだが駄目だった。
しかたないので、余った時間でカルカッソンヌの城を見た。その途中、観光案内所に立ちよりピレネー地方の鍾乳洞について聞いた。ちょうど良い案内地図をくれたが、みな閉まっているとのこと。ニオーという鍾乳洞が1つだけ開いており予約が必要というので公衆電話から「明日行く」と電話したら、次のようなやりとりになった。
・今どこにいる。カルカソンヌだ。
・車はあるのか。ない、バスで行く。
・それでは明日また電話してくれ。
どうやら車無しでは、フランス語の話せない日本人が、ここまで本当にたどり着けるか疑問に思ったのだろう。
ニオー洞はピレネー県の県庁所在地のフォアの近くらしい。地図で見るとバスで行ったほうが遙かに近いので案内所でバス乗場を聞いたら、「バスは当てにならない、列車で行け」とのこと。列車だと一旦ツールーズに出てから乗り換えなので2倍半ぐらいの距離になるのだが。
そんな訳でフォアに着いたのは夜の8時半だった。近くの山の上に立派なお城がライトアップされていた。クリスマスが近いせいだろう。列車を降りたが、駅前は真暗で人家すらなかった。これでも県庁所在地かね。川沿いの暗い道を5分ほど歩いたら、やっと夫婦連れが歩いているのに出会った。「ホテルあるか」「何ホテルだ」「予約はしていない、どこでも良い」のやりとりの末、町外れではあるが駅から一番近いホテルを教えてもらった。彼らにとっても英語は外国語のせいか単語を並べているだけだった。むしろそのほうが分かり易い。
このままでは明日のニオー洞1つしか洞窟に入れない。ホテルの部屋に入ってから一計を案じて「私は日本洞窟学会の会員である。この付近の洞窟はみな閉まっていると聞いている。私はフランス語が話せないので、なんとか入れるようにネゴしてくれないか」と英作文して紙に書いた。
それを持ってフロントに行き、女将に「ヘルプ ミー」と言って、その紙を差し出した。しげしげそれを読んでいたが、「あなたが重要人物であることは分かった。適当な人を紹介するから電話してみたら」ときれいな英語で答えが返ってきた。「フランス語が話せないから交渉をしてくれと頼んでいるんだ」といってみたが通じなかった。あとで思い出してみたら、一部に中国語を使って話していたので通じるわけがない。
結局女将から、ある洞窟の所有者とプロフェッサーなにがしの電話番号を書いた紙を渡されただけ。洞窟所有者は洞窟の事務所だけではなく自宅の番号も書き添えてあった。洞窟はもう閉まっているので事務所にはいないことも考えてくれたのだろう。プロフェッサーは世界的にも有名でこの方面では影響力のある人だとのこと。
部屋で洞窟のある位置を調べたらフォアから40kmも離れている。タクシー代も心許ないし、しかも先史時代の洞窟絵画が売物の洞窟のようなのであきらめることにした。それから町に出て夕食。とあるピザ屋に入ったら、びっくりしたような顔をして迎えられた。この付近まで日本人が来るのは滅多にないのかも知れない。町はクリスマスのためきれいにイルミネーションで飾られていた。

12月13日(水)晴れ

フォアを9時頃の列車でタラスコンまで進んだ。四周は石灰岩の山で囲まれていた。生きの良い石灰岩らしくどの山も急峻だった。そこからニオー洞へ「今からタクシーで行く」と電話。OKという答えが返ってきた。次にタクシー会社に電話。相手はフランス語しか話せないらしく会話は全く成り立たなかった。でも「スタチオン、ジャポネ、タクシー」という言葉は通じたらしくすぐにタクシーが来た。
20分ぐらいで洞口に着いた。その途中の道の両側にも溶食を受けた石灰岩壁がせまり、穴もいくつか見られた。この程度の穴では興味の対象にならないのか。もったいない感じだ。大きな岩壁の1/3ぐらいのところまで自動車で登ってゆくと目指すニオー洞があった。谷底から見ると300mぐらいは登っているだろう。
洞口は高さ40m・巾30mぐらいか。洞口のスペースが駐車場になっていた。奥に行くにしたがって急激に細くなり、入り口の扉のところでは高さ巾とも10mぐらいだった。洞口は南に向いていて正面の谷の奥には雪を頂いたピレネーの山がそびえていた。すごく景色の良いところだ。管理人室にはお兄ちゃんが1人いた。11時に案内するとのこと。腹を空かした鳩が足元に寄ってきたのでそれと一緒に持参のサンドイッチを食べた。
11時直前にもう一人見物人が自動車で現われた。2人を案内して、いよいよ洞窟に入ることになった。入場料は60フラン(900円)。かなり重い鉛電池入の手持ちライトを各自に渡された。写真撮影は禁止とのこと。洞口の扉を通るとき風向に気を付けたが奥にもう1枚扉があったので、風向は分からなかった。風の向きはどちらだ聞いたら奥に向かって吹き込んでいると言っていた。タクシーの運転手がこの山の反対側にも洞窟があり、ニオーはそれと繋がっているというようなことを身振りで示していたのを思い出した。
洞窟はほぼ平坦で奥に向かってやや下っていた。洞幅は狭いところでも10mはあった。洞底はきれいにリムストーンで覆われていたが完全に踏み潰されて丸みを帯びていた。二次生成物はあまり多くなかっが立派な鍾乳洞だった。途中に富士山型の石柱が洞をほぼ完全に塞ぐ形で立っている所があった。その石柱を削って人一人通れる通路が設けてあった。日本なら洞壁を削って通路をつくるだろうに。
照明もないのに洞壁にケーブルが張ってあったので「これは何のためか」と聞いたら、洞窟壁画のある部屋の温度・湿度などを測定して記録するためだとのこと。
500mぐらい入ったところに落書きがあった。石灰岩の質を見るために壁に触ってみたら「ノン、ノン」と注意された。どうやらこれも重要な遺跡の1つらしい。よく見ると1300年代の落書きも混ざっていた。一番多いのは1600年代だった。
入り口から800mで、この洞窟の売物のプレヒストリック(先史時代)の動物の壁画があった。実に写実的で生き生きと描かれていた。バイソン、鹿、猪などだった。約13000年前のものだという。そこは高さ40mぐらいある大きなホールだった。当方はホールの形のほうが気になるので、あちこちにライトを向けていたら「見るのはこっちだ」とでも言うように声をかけられた。向こうにとっても変な客だと思ったに違いない。もう一人の客はフランス人なのにあまり質問はしていなかった。
「1300年も前ならランプもないし、あの狭いところを通り抜けて、こんな奥までくるのか」と質問したら、「貝殻にラードを入れたランプは持っていた」という説明が返ってきた。「あの狭いところを通り抜けて」の部分は伝わらなかったらしい。「なぜ動物の絵ばかりなのか」との質問に対しては、「来る途中に点と線で描いた抽象画があったろう。動物ばかりではない」との答えだった。
総じて、プレヒストリックの壁画が売物の洞窟は考古学の対象であって、洞窟そのものは保護の対象ではないらしい。入り口から奥まで続く立派なリムストーンが全部摩滅してしまっているのは悲しい限りだった。お兄ちゃんの話によると、冬でも開いているのは洞窟壁画が売物の洞だけでケイビングの対象となるような穴は夏だけとのこと。
1時間半ほどの案内が終わって出てきたらパンフレットをくれた。お兄ちゃんがもう一人の客に「日本人を駅まで乗せていってくれ」と頼んでくれたので乗って行くことになった。お兄ちゃんの話によると「彼女はこの後もラスコーなど洞窟壁画めぐりをするそうだ。同行するか」と親切に声をかけてくれた。案外気の良い奴だなと感謝した。彼女(と言ってもおばさん)と英語で一寸話したが、分からないらしい。
乗せてもらう立場で言葉が通じないのは苦しい。しかも、荷物を見ると、車でキャンピングしながらまわっているようだ。今迄はこちらが客の立場だったから、メチャクチャな英語でも相手が我慢して理解に努めてくれたのだろう。こちらが頼む立場で言葉が通じないのは致命的だと考えて、涙を飲んで同行はあきらめ、駅まで同乗させてもらうことにした。
一旦フォアまで戻り、14時頃の列車で国境の駅ホスピターレまで進んだ。鉄道の両側の山は全て石灰岩。日本での洞窟探索のように「どこに石灰岩の露頭があった」というような情報は必要ない。列車からでも大きな未管理の穴が沢山見えた。でも駅が近くにないので、この辺を調べるには車が必要だろう。ここから先はスペインかと思っていたが、地図をよく見ると、スペインの手前にアンドーラ共和国という小さな国があった。
ホスピターレには15時半頃ついたが、首都のアンドラまでのバスは19時まで無いという。駅前に立ち尽くしていたら、髯もじゃの兄ちゃんが声をかけてきた。フランス語で「どこへゆく」と言ったと思ったので「アンドーラ」と答えたら、どうやら「車が来るから乗っていけ」と言っているようだ。運を天にまかせてついて行くことにした。
友達の迎えの車が来るまで駅前のカフェで時間つぶし。当方の飲物までとってくれる気持ちのいい奴だった。例の通り辞書を真中においてたどたどしい会話が始まった。その店のポスターにシベリアンハスキーの写真が大きく写っていたので「ここにもシベリアの犬がいるのか」と聞いたら、それは狼だと言っていた。
車が来たので乗った。立派な舗装道路をぐんぐん登り、もう全山雪で覆われた高山地帯に入って行く。20分ぐらいで賑やかなスキー場に着いた。その中のレストランがその兄ちゃんの家だそうだ。従って同乗もここまで。あとはタクシーで行けとのこと。料金を聞いたら220フラン(3300円)ぐらいとのことなので行ってみることにした。
タクシーを呼んでもらって、いよいよアンドーラへ。運転手は可愛い女の子だった。アンドーラまで40分ぐらいだった。スイスのような美しい山国を想像してきたのだが、あるのは岩だらけの禿山ばかり。スイスというよりチベットの景色に近い。道筋にはスキー場ばかりで、ちっとも住民の生活が見えてこない。ひょっとするとフランス・スペインのリゾート地として成り立っている国なのかも知れない。
アンドーラはかなり大きな都市だった。「どのホテルにつけるか」と聞かれた。もう現金が底をついてきたので「シティイバンクの前」と答えた。
さっそくシティイバンクのVISAカードで現金を引き出す操作をしたが「インバリッド」となり引き出せない。どうやらインターナショナルの手続きをしていないカードらしい。残る現金は450フラン程度。あとはVISAカードだけで旅行しないといけない。タクシーやバスは現金でないと乗れないので一寸心細い。
近くのホテルに入りVISAカードを示してOKか聞いたら、スペイン語で対応され面食らった。でも身振りでOKであることは分かった。パスポートを出せというのでフロントに預けた。さすが異国に来た感じだ。部屋には政府の認証つきの料金表が張ってあった。ペセタとフランの両方で書いてあったので安心した。
夜、フロントでタウンマップをもらい町を歩いてみた。免税店ばかりが並ぶつまらない町だった。思いがけないほど見上げる位置に雪だるまの電飾が光っていた。相当近くに急峻な山がそびえていることが分かった。道すがら崖の上に建っているアパートを見たら、その基礎が石灰岩の上に剥き出しで乗っていた。ひどい建て方をするものだ。
明日ここにいてもつまらなそうなので一番のバスでフランスに帰ることにした。5時45分発とのこと。モーニングコールを5時にたのんで、バスの乗場までのタクシーも呼んで貰うことにした。
部屋に帰ってから明日以降の行程の計画を立てた。もう現金がないので駅から離れた鍾乳洞は無理。駅近くにある鍾乳洞をホームページのリストから探したがなかった。しかたないので鉄道で石灰岩地帯の多い中央高地を東西で横断することにした。さながらフランス国鉄のローカル線の旅というコースになってしまった。

12月14日(木)曇り

タクシーの運転士にホスピターレ行きのバスの時刻表を示して「バスストップ」といったら確かにバスターミナルで降ろしてくれた。バルセロナ行きのバスがついていた。定刻5分前になってもホスピターレ行きのバスが現われないので売店に行って聞いたら、ホスイターレ行きのバスの発着場が最近変わったらしい。道順を教えて「急げ」と言っているのは分かるのだがスペイン語では道順までは理解できなかった。地名だけ紙に書いてもらって指差す方向に駆け出した。あいにく朝が早いので人っ子一人通っていない。結局どこだか分からないでうろうろしているうちに時間が過ぎてしまった。
次のホスピターレ行きは14時なので、こんな寒いところで待ってはいられない。しかたがないからバルセロナ行きのバスに乗ろうかとターミナルに戻ってきたら、それも出てしまった後だった。このときは途方にくれた。まだ真暗な町の中をとぼとぼ歩いていたらタクシーは結構走っていた。
タクシーを止めて「ホスピターレ、いくら」と聞いたら400フラン(6000円)とのこと。現金が全部無くなってしまってはフランスに入ってからこまるので「300フランでどうか」と言ったら「駄目だ」というジェスチャーをして走り去ってしまった。
タクシーの運転手にすればこんな市内で短距離走るより長距離客を捕まえたいはずだからもう少し当たってみることにした。その前に100フラン札を1枚ポケットに隠した。次にきたタクシーを止め「いくら」ときいたら同じく400フランとのこと。
・財布を示してこれしかない。
・ペセタは無いのか。ない。
・「小銭はこれだけ」と、コイン入れから30フランぐらいのものを示した。
・「乗っていけ」というジェスチャーをしたので「サンキュー」と言って乗り込んだ。
それから先も本当に行く先が伝わっているのか心配だったが、磁石で見ると概ね東に進行していたのでまず間違いあるまい。そのうち昨日見覚えのあるスキー場の前を通ったので安心した。道路の最高地点付近で運転手が「ウヲー」という声を上げたので前を見たら、狼をはねる寸前だった。ドスンと音がしたので、はねたことは間違いないが、体半分ぐらいは飛び退いていたので、致命傷ではないかも知れない。
国境の警備所では「パスポート見せろ、ザックの中見せろ」と意外と厳しかった。昨日はこんなことなかった。地元の人の車に乗っていたためか。こんな朝暗いうちにタクシーで出て行くのを不審がられたせいか。無事通過して少し走った所で乗り逃がしたバスを追い抜いた。
ホスピターレ駅には列車に十分間に合う時刻に着いた。良かった。運転手に財布を逆さにして有り金全部を払った。駅ではペルピニャンに直接出る切符をくれと言ったのだが「売れない」という。なぜだか意味は分からなかった。しかたないので、とりあえずツールーズまでの切符をVISAカードで買った。
ツールーズには9時半頃ついた。そこで昨夜作った、ローカル線めぐりに近い経路を書いた紙を示して、これをくれと頼んだ。理解に苦しむという顔をしていた。日本で言えばさしずめこんな経路だろう。大阪から東京に行くのに、北陸線で富山に行き、高山線で名古屋に出て、中央線で塩尻を経由して東京に行くというようなものだ。
緑の窓口の係員が大阪~名古屋と打ち込むものだから、全然こちらの意図する線を走る列車にならない。フランスの地図を広げて「ここを通る列車が欲しい」と指差す。それではと打ち直してくれたが、中央高地を横断する列車が夜にかかってしまいこれでは景色が見えない。もっと早い列車に乗りたいと言ったら、この線は1日3本しか走っていない。お前のいう昼間の列車には間に合わないとのこと。「TGVを使ってもか」と聞いたら「そうだ」とのこと。この辺はTGVも在来線を走るのでそんなに速くないらしい。
「それではノーサンキューだ。計画し直してくる」と言って窓口を離れたら、「せっかくお前の言う通りに提案したのに何だ」と不服そうな顔をしていた。後ろには長い待ち行列ができていた。
駅に置いてある時刻表は主要線区の時刻表だけなので使い物にならない。日本のように全国の時刻表が簡単に手に入ればいいのだが。駅のカフェに入り、地図を広げて再検討。ここでまた、なけなしの35フランが出てゆく。
ツールーズはフランスでは西に位置しているのだから、中央高地を東で横断してから西で横断するのを、西で横断してから東で横断するように計画を書換えた。それを持って再度緑の窓口へ。今度はこちらの意図が伝わるよう「渓谷を昼間見たいのだ」と書き添えておいた。
これで何とか希望どおりの列車が取れた。途中のクレルモンフェランで1泊する切符なので「ホテルも取るか」と聞かれた。「たのむ」と予約してもらった。ツールーズに着いてから、ここに漕ぎ着くまでに2時間を要した。いやはや言葉が通じないとは不便なものだ。 日本にも出稼ぎで東南アジアから人がいっぱい来ているが、彼らも苦労しているのだろう。
12時半頃の列車でクレルモンフェランに向けて出発。乗客は各ボックス1人ぐらいなので、椅子の上にフランスの地図を広げてその上に磁石を置き、石灰岩が見られたところに印を付けながら進んだ。
中央高地もこのラインではなだらかな丘になっていた。時たま見える石灰岩もずいぶん風化されて変色していた。渓谷もたいしたものが無かった。むしろ沿線の寂れた田舎町の景色が印象的だった。
クレルモンフェランには18時半頃ついた。駅に降りて気が付いたが、今日は予約したホテルを探さなければならない。かえって面倒なことをした。言葉ができないと道順を聞いても分からないからタクシーで行くことにした。
駅前のタクシーにホテルの名前を示したらOKという返事。運転手が出てきて背中のナップザックをやにわにはずして自動車のボックスにいれた。膝に乗るくらいの荷物なのに。
ホテルは駅から結構離れていた。鉄道で紹介するホテルが駅から遠いといのもおかしなものだ。メーターは22フランなのに50フランだという。メーターを指差して「おしいではないか」というと「荷物扱い料」だという。それで当方の小さなザックをボックスに入れたのか。雲助みたいだな。ここでまた50フラン消え、残るはコイン15フランのみ。
ホテルはIBSという有名なホテルチェーンだが、郊外の自動車用ビジネスホテルという感じだった。ホテルのレストランで夕食。フランス語のメニューしかなかったので辞書を片手に20分近くも内容を調べていたら、ボーイがしびれを切らして英語で説明を始めた。ビーフステーキを頼むことにした。
もうタクシーに乗る金が無いので、ホテルでタウンマップを貰い、駅までの距離を推測した。縮尺が出ていなかったので距離は分からなかった。それで駅まで歩いてみることにした。タクシーで来た道は遠回りなので直接駅に行く道を歩いた。地図は正確だったので、駅までの半分と思われるところまでの時間を計って帰ってきた。駅まで約25分と見ておけば良い。

12月15日(金)晴れときどき曇り

列車は6時45分発なのでホテルを6時に出た。駅には6時25分に着いた。出発掲示板を見たが、乗る予定のニーム行きの列車がない。入り口の上に下がっているテレビを見たら、乗るべき列車にバスのマークが付きAUTCARと付記されていた。
案内所に行ったら運休であることは分かったが、代替バスが出るのかどうか要領を得なっかた。次に切符売場に行って乗車券を示しながら「どうすればいい」と聞いたが、それは自分で決めろとのこと。代替バスが出るのかどうか聞きたかったが、辞書に適当な言葉が見つからなかったのでついにあきらめ、直接パリに行く列車に換えてもらうことにした。そのやりとりの過程でチラッと「ストライキ」という言葉が聞こえたので、「やまねこスト」でも発生したのか。ストが予定されているのなら、その列車の切符は発売しないはずだからだ。
一番楽しみにしていた中央高地東部での横断ができなくなった。地図で見ると、ここは列車で3時間の間ずっとゴルジュに沿って走ることになっているからだ。しかも先日のアルデッシュ峡谷にも近いので、ずっと石灰岩が続いていることが予想される。無念残念。
8時半頃発のパリ行き直通列車に乗った。いままでのローカル線の客車よりずっと上等な客車が使われていた。景色はつまらない田園風景ばかり。パリリヨン駅に12時につき、なんの成果もない石灰岩地帯訪問旅行が終わった。早速本屋に飛びこんでフランスの地質図を買った。

(小堀 記)

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