2003年4月19日(土)、埼玉県秩父郡大滝村(現秩父市)の中津川石舟沢支流、藤十郎沢で第2次洞窟探索を行う。参加者は芦田、小野の2名。
今回、探索を行った藤十郎沢は石舟沢の支流であり、上流は東谷と西谷に分かれている。東谷は2001年12月に東京スペレオクラブによって洞窟探索がなされ、3mほどの洞穴が発見されている。そこでPCCでも2002年7月に西谷で洞窟探索を実施し、小規模ながらも5本の洞穴を発見することができた。しかし、これによって西谷と東谷で発見された洞穴の数の差が5倍に達することとなり、東谷にはまだ未発見の洞穴があるのではないかという結論が導き出された。そこでPCCにおいても東谷での洞窟探索を実施することになった。
まず、最初に東谷と西谷の出合い付近左岸にある石灰岩壁から探査を開始した。芦田が岩壁に沿って右へ、小野が左へ移動しながら探索した。2人とも岩壁が途切れたところで上方に向かい、新たな岩壁を発見、その下沿いを探索するが、じつは2人が探索した岩壁は同じ場所で通過時間だけがずれて、ルートが交差してしまったのである。
その結果、芦田の方は途切れ途切れの岩壁下を北──東谷上流方向に移動し、岩壁の下降とともに高度を下げてしまった。小野の方は岩壁下を南──東谷下流方向に移動し、尾根に向かって登ってしまった。トランシーバーは通じるものの、笛はまったく聞こえなくなってしまった。
そして、芦田が岩壁の途中に洞口っぽいものを確認し、よじ登ってのぞいてみると、奥が続いていることが判明した。途中、左側に第2洞口を確認し、そのまま下る感じ10mほど進むと、流れ込んだ土砂により超狭洞となり入洞不能となる。芦田が隙間から洞奥をのぞくと、少なくとも5m以上は続く空間が見える。
一旦、出洞して小野に第一報を連絡。埋没箇所をディギングしてみることを伝え、場所を教える。小野の方はとくになんの発見もないようだった。
その後、芦田はシャベルを持って再入洞し、ディギング作業を15分ほど行った。洞床の土砂を手前に掘り出し、人がギリギリ抜けられる空間をなんとか確保した。さっそく、足からつっこんでみる。下りだったおかげで、狭洞部をなんなく通過。抜けた向こう側は思っていた以上に広かった。一応、帰りが登りルートであることを考慮して反対側からも土砂を取り除き、狭洞部を広げておく。
洞奥側は斜めに傾いたクラック状で緩やかな下り斜洞となっていた。雰囲気は大ガマタ沢・ケイ谷洞の「ピラミッド回廊」のミニチュア版といった感じだった。さっそく「ピラミッド回廊もどき」と命名する。
洞口よりより高低差にして約10m、ディギング地点より距離にして約30mで洞穴は斜洞から横穴となり、天井高も急激に下がって、匍匐でなければ前進できなくなる。今にも埋没で行き止まりになりそうな気配である。このまま1人で奥へ進むのは時間がかかり過ぎるので、とりあえず洞口まで戻ることにする。
芦田が洞外に出洞したところ、小野がまだ到着しておらず、トランシーバーで呼び出すと、まだ、新洞穴の場所を特定できない様子だった。再度、現在地を伝え、小野が到着するまで昼食をとることにする。
合流後、芦田は小野に洞内の状況を説明し、昼食をすませてから追いかけるという小野を残して三度入洞した。葡匐ルートの横穴は洞床が小さい礫の堆積で、やはり雰囲気的にはすぐに終わりそうなのだが、意外にもずっと奥が続いていた。洞床の状態から明らかに大量の水が流れた気配もあるが、その堆積した礫の上に石筍がいくつも立っていて、水流があったのは相当昔のことだと思われる。
また、葡匐ルートには、いくつかの石筍が行き先を塞ぐように立っているが、洞床が細かい礫のため、そのまま横へ水平移動させることができるので、二次生成物を壊さずに進むことができた。そのまましばらく匍匐前進を続けると、ついに洞床が母岩となり、葡匐状態から四つんばい状態に移行できるようになる。そして、洞口からおよそ80m地点で行き先は浅い縦穴となる。
その2mほどの縦穴をフリーで降下すると、行き先は急傾斜の斜洞となっていて3mほど下方で崩落岩塊により行き止まりとなっている。ついにおしまいかと思いつつ、頭を下にして、岩の隙間をのぞき込むと、意外にも向こう側には人が入れる空間があった。崩落岩塊も思ったほど大きなものはなく、なんとか排除できそうだった。
5分ほどの作業で2度目のディギングは無事終了し、崩落岩塊を排除した狭洞を抜けると、洞穴は再び傾いたクラック状の登り斜洞となって続いている。ここで進行方向が明らかに変わったように思えたので、コンパスで方位を確認したところ、縦穴を降りる前は東(山側)に向かっていた主洞が180度回って西(沢側)に向かっていた。これまで進んできたルートに平行して逆行する感じである。クラックの傾きも同じ方向、同じくらいの角度である。
この付近より、つらら石やカーテンといった二次生成物が見られるようになる。約15mほどで斜洞は横穴となり、心持ち下り気味になる。さらに15mほどで超狭洞となり、入洞できなくなる。しかし、その直前の右側に支洞があり、のぞき込んでみると、向こう側がいきなり広くなっている。
これまでは葡匐したり、クラックを抜けてきたりとお世辞にも広いと言えなかった洞穴が荷物を背負って立ったまま移動できる規模になっているのである。どうやらクラック沿いにまっすぐが主洞ではなく、こちらの支洞っぽい方が主洞のようであった。また、そこからのルートも4方向に枝分かれていた。とりあえず「5辻ホール」と命名しておくことにする。
芦田は、これ以上進むと小野と合流できなくなると判断して、一旦戻ることにした。ディギングした狭洞を抜け、短い縦穴を登り返したところで、ちょうど小野がやってきた。さっそく2人して最奥部に向かうことにする。
5辻ホールに着いたところで、洞口方面へのルートを確保するため、やってきたルートの入り口に石でケルンを作っておくことにした。さすがに初めて入る洞穴が迷路状になってくると、無事に出洞するための用心が必要になってくる。
まず、一番手前左の横穴に小野が入ってみるが、すぐに行き止まりとのことだった。次に左から2番目の横穴に小野が再度入洞し、その右下の横穴に芦田が入洞した。小野と芦田が入洞したルートの行き先はまったく同じで上層と下層というだけだった。しかし、下層の方は多段状に下っていて最後は3mほどの縦穴となる。上層からだと5m以上の縦穴となっていて、フリーで降りることはできない。
下層ルートは上層ルートからの縦穴直下で右に90度曲がる。ここでコンパスを確認すると洞奥方面は再び180度回って東(山側)に向かうようになっていた。そして、行き先は泥でツルツルの下り斜洞となる。右側の洞壁にはクランク状のつらら石やヘリクタイトなどがあるので、それらを折らないよう慎重に進まなければならない。
約10mほど進むとで上方に続く斜洞と水平に続く匍匐前進の横穴に分かれる。横穴の方へ進むと、すぐにホール状の登り斜洞となる。ここも母岩がツルツルで斜壁を登るのが非常に困難である。左の方に水流の流れた跡があり、大きな甌穴が2つ確認できた。そこで、このホールを「甌穴ホール」と命名した。また、ここには長さが1m以上のつらら石もあり、斜壁を滑り落ちると折ってしまう可能性があるので、行動には十分注意する必要がある。
水流の跡沿いに上方へ登ろうとしたが、フリーで登るには滑落の危険が大きすぎるのと、今回は参加者が2人だけだったので、万一、事故が起きたとき、対処が困難と思われたので登攀を中止することにした。この斜壁のアタックは今後の課題である。
甌穴ホールの右側にはツルツルの登り支洞があり、床と天井を使ってチムニーで登ると、大きくループして、匍匐前進手前の上方支洞につながっていた。これらの支洞以外にも行き止まりになる支洞が数本、バイパス状の支洞が2本確認できた。現状で総延長は150m以上になると思われる。洞奥の方が空間の規模が大きいので、甌穴ホールの上方が続けば、200m以上になる可能性も十分にある。とりあえず、この新洞穴を「藤十郎沢鍾乳洞」と命名することにした。
今回、発見した藤十郎沢鍾乳洞は最初の感じからは、とてもここまで続くとは思えない洞穴であった。したがって、去年の夏に発見した藤十郎沢西谷の風穴も、この洞穴同様に延びる可能性が高い。
藤十郎沢鍾乳洞の出洞後、東京スペレオクラブが発見した東谷右岸にある3mの洞穴を確認してから帰途についた。
(芦田 記)