富山岐阜県境地域第2次洞窟探索予備調査/飛騨大鍾乳洞・両面窟探勝

2002年8月16日(金)~18日(日)、富山県東礪波郡利賀村、岐阜県大野郡白川村、吉城郡河合村で第2次洞窟探索予備調査を行う。また、岐阜県大野郡丹生川村にある飛騨大鍾乳洞及び両面窟を探勝した。参加者は芦田(宏)、芦田(理)の2名。
今回洞窟探索予備調査を行った地域は、地質図によると大規模な石灰岩帯が数多く分布しているが、ケイバーによる洞穴探査はほとんど行なわれていない。また、豪雪地帯であるので、石灰洞が存在した場合、雪解け水による浸食で大規模なものが形成されている可能性が高い。
PCCでは、この地域に大規模な洞穴が存在するのではないかと推測し、『Gプロジェクト』と呼称して情報収集を行い、1995年5月2日(火)~6日(土)には富山岐阜県境地域第1次洞窟探索予備調査を行っている。しかし、この時は道路などに残雪がまだ大量にあり、思うように探索地域を巡ることができなかった。
その後の情報収集で、白川村が村内に鍾乳洞がないかどうか調査したということが判明した。白川村役場の方の話では、この時の調査では鍾乳洞発見には至らなかったとのことであるが、その時に作成された「白川村鍾乳洞調査報告書」には新洞発見につながるヒントが多数ありそうであった。その調査報告書の閲覧する許可をいただけたので、調査報告書の閲覧と周辺地域の石灰岩体偵察を目的に富山岐阜県境地域第2次洞窟探索予備調査を行うことにした。
16日の朝8:00に自宅を出発したが、関越自動車道に乗ったとたん、いきなり事故渋滞に巻き込まれてしまう。計画では白川村役場に13:00ごろ到着予定であったが、北陸東海自動車道の五箇山インターを下りたのが15:00過ぎ、役場に到着したのは15:40だった。さっそく、調査当時に商工観光課長だった方に面会を求めたが、なんと急な出張なため、不在とのことだった。
事前に面会の約束がしてあったので、引き継ぎを受けた別の職員が対応に出てくださったが、その方は調査については何も知らず、調査当時の商工観光課長だった方以外はよくわからないとのこと。ということで、役場の方へのヒヤリングは断念し、とりあえず白川村鍾乳洞調査報告書を閲覧させてもらうことにする。
報告書の内容は、それほど詳しいものではなく、白川村付近の航空写真や石灰岩の分布図と4か所で行った採水調査、1か所で行った山上探査の結果を記載したものだった。以下にその概略を記す。

「白川村鍾乳洞調査報告書」概略

・調査内容
1.天生峠北部(牛首峠南部)に広がる平原状山頂で縦穴がないか調べた。複数のドリーネは確認できたが、縦穴らしきものは1つしか発見できなかった。その縦穴は直径30cm、深さ2m以上あったが、降りていない。
2.航空写真により、天生峠北部(牛首峠南部)に広がる平原状山頂には、今回調査したドリーネ以外にも数多くのドリーネが存在することがわかった。
3.その平原状山頂西方の谷にある湧水を調べた。水質調査の結果、カルスト湧水であることがわかった。
4.繊砂谷中滝付近の枝沢にある湧水を調べた。水質調査の結果、カルスト湧水であることがわかった。
5.天生峠と籾糠山の間の谷にある湧水を調べた。水質調査の結果、カルスト湧水であることがわかった。

・調査結果
1.人が入れる鍾乳洞はない。
2.石灰岩帯は北東部の富山県東礪波郡利賀村の方まで、ずっと続いているので、そちらの方に鍾乳洞があるかもしれない。

以上のように、白川村が行った鍾乳洞調査では新洞穴を発見するに至らなかったようである。しかし、PCCが今後、この付近で洞窟探索を行うに際して必要となる情報を数多く含むものだった。とくにこの地域の石灰岩体の詳細な分布が判明したことは非常に大きい。
その石灰岩帯の分布状況は奥多摩や奥秩父とは雲泥の差があり、武甲山や叶山クラスの大規模な石灰岩体が複数、広範囲に分布している。その規模は近江カルストの石灰岩体にも匹敵すると思われる。したがって、今後、PCCが奥秩父などで行っている洞窟探索と同レベルの探索を行えば、新洞穴発見の可能性は非常に大きいと思われる。
ただ、白川村には、あまり大きな岩壁が見あたらないので、横穴よりは縦穴の方が可能性が高いと思われる。しかし、横穴と違い、面で探査しなくてはならない縦穴を見つけるのは容易なことではない。
白川村役場で「白川村鍾乳洞調査報告書」を閲覧後は白川郷にある合掌造りの宿に向かう。

17日の午前9時に白川郷の宿を出て、牛首峠に向かう。まず、石灰岩体沿いに延びる谷側の林道からアタックするが、入り口から5分ほどで舗装が途切れ、さらにもう少し行った地点で路肩が崩壊していて車での進入は不可能となる。やむを得ず、山側の林道から行くことにする。
山側の林道を入ってすぐに白川村役場で写し取った地質図では石灰岩帯になっている場所になる。林道に落ちている転石は確かに石灰岩だったが、山が茂っているせいか、これといった石灰岩壁は見あたらなかった。しかし、水が流れている枝沢はほとんどない。これは地表水が石灰岩体に吸い込まれているものと思われる。どうやら、この付近の石灰岩体は被覆土に厚く覆われているようである。
さらに途中、高圧線が2本横切る付近も石灰岩体であるにもかかわらず、まったく石灰岩壁を確認することはできなかった。もう少し木々が枯れれば、見つけられるのかも知れないが、残念ながら今回は無理そうである。次回の探索に期待したい。
なお、この山側の林道は比較的よく整備されていて、二駆車でもなんの問題もなく走行することができる。交通量も人里離れた山奥にしてはけっこう多く、何台もの林道ツーリングのバイクや四駆車とすれ違う。前回の第1次洞窟探索予備調査では、積雪のため、牛首峠の手前までしか行けなかったが、今回は無事に牛首峠にたどり着くことができた。
牛首峠からは石灰岩帯が広がる山上に高圧線メンテナンス用の林道が延びている。地形図では山の上は平原状になっているので、もしかするとドリーネが存在するかもしれない。さっそく車で乗り入れてみるが、二駆車ではすぐに苦しくなり、進入を断念せざるを得なかった。
牛首峠より利賀村側に少し下った地点から、先ほど行こうと試みた山の南側を流れる利賀川沿いを走る林道が分かれていたので、こちらにも入ってみることにした。途中、山側が崩落していて相当シビアな箇所もあったが、なんとか谷底までは到達できた。予想どおり、谷には大量の石灰岩の転石があった。
林道が半崩壊しいたので、誰も来ていないだろうと思っていた場所だったが、なんと、、そこには車が1台停まっていて、人が1人いた。話を聞いてみると、釣りに来たとのこと。この辺りはよく来るとのことなので、さっそくヒヤリングをしてみる。しかし、残念ながら、釣り師の回答は「この利賀川沿いには、谷を歩いていて、すぐにわかる石灰岩壁はない」「あるとすれば山の斜面の上の方だ」「顕著な湧水もない」だった。しかし、下流の方にある湧水の場所を教えてもらうことができた。
当初は、この利賀川沿いに上流に歩こうかとも考えていたが、釣り師へのヒヤリングにより、谷沿いには石灰岩壁がないことがわかったので、山が生い茂っているこの時期に行っても成果を得ることはできないと判断し、中止することにした。山が枯れた時期に再度訪問をきっしたい。
林道は利賀川の対岸に続いていたが、それ以上の進入は二駆車では困難なため、もとの道に戻り、利賀村の水無の集落に向かうことにした。利賀川左岸沿いの林道を水無に向かって進んでいく途中、左の山から来る枝沢には石灰岩の転石がいくつも見られた。しかし、石灰岩壁は確認できない。左岸側の山の上の方に行く林道もあったが、今回は時間の都合でパスしてしまった。あとで考えると、無理してでも見に行っておけばよかったかもしない。
利賀川ダムを渡り、ついに水無集落跡に着く。といっても現在は人が住んでおらず、廃村である。冬場(12月~3月)は雪に閉ざされて地上から近づくこともできない秘境で、唯一、利賀川ダム管理事務所に人が年間を通じて常駐しているが、冬場はヘリコプターで外界と行き来しているとのことである。
ここを訪問した目的は水無谷と地形図上で確認できた水無谷横の神社の調査にあった。じつは事前の情報収集において、水無谷は涸れ沢であるという情報があった。しかし、下流には利賀川ダムがあり、ダム湖が形成されている。そのうえ、地形図によるとメインの集水域は水無谷側のように見える。水が流れていない川の下流にダムがあるというのは非常に不自然である。
しかし、水無集落付近には広範囲に石灰岩体が広がっているので、水無谷の涸れ沢状態は石灰岩地帯の伏流現象であり、ダムまでの間のどこかで大量に水が湧き出していると考えれば、下流にダムがあっても不自然ではない。そこで目をつけたのが、水無谷横の神社である。日本全国、水穴の洞口や湧出口付近に水神様が祀られていることは往々にしてある。この神社にも同じく水の湧き出しがあるのではないかと推測したのである。
水無の集落跡付近には、あまり家屋が残っておらず、目標の神社もすぐに見つけることができたが、予想に反して神社周辺には水の湧出口はなかった。しかし、神社の言われを解説した石碑があり、それには推測していたような内容が記載されていた。

水無八幡宮の由来

水無山は越中國の最南端飛騨との國境
にあり 標高一一〇〇米金剛堂山を初め越中
立山加賀白山木曽御嶽山を一望する霊峰
である 此の地に八幡宮鎭座し祭神譽田
別尊住吉より産土神と崇められ正徳二年
九月堂官社調書上帳に記載の神社である
古くより大森林地帯で山伏の重要道路
にして三百年の歴史を有し部落民敬神の
念厚く其の頃山伏の通行中急激の大雨
と洪水に逢い從者諸共水に流されし時
八幡大神に祈願せしに河水地中に潜り
水なき川となり從者も救はれたと傳えられる霊験
あらたかなる八幡宮である
其の後現在に到るも此の地は上流河水
流れども途中自然に地中へ潜り下流大水
湧出するを以って水無川と稱へ地名を水無
と名付けたり 徳川十一代将軍家斉の項
文政二年卯月吉日八幡宮は願主定右ェ門
大工佐十郎により若宮山より現在地に遷宮
された其の後加賀前田藩の領地となり鷹狩
の地として其の看守人山本甚太郎山本七平
両人を派遣永住させ此の地を巣原山と
改稱し八幡宮の守護に任ぜられた
大正昭和年代は森林事業の開発と水利
田畑の開墾等により十六世帯人口百二十
余に及ぶ住民の生計を基にした地なるも
文化社会の進展とダム築造に倶い部落住民
は都市に転居し過疎地となったので茲に
八幡宮の存廃につき本村出身者富山県議
会議員島田英治氏と協議の上水無山の
守護神として部落民一同協力し本殿を
石造に再建し永久に八幡宮を遷座し奉
ったのである

昭和四十九年十月吉日

というわけで、水無谷には伏流になっている場所があるはずなのだが、車で林道を走りながらでは、その場所を特定することはできなかった。付近には人家が1軒もないので利賀川ダム管理事務所まで戻り、そこで伏流する場所を尋ねてみたが、わからないとのことだった。水無谷を歩いて遡行しないと、その場所を特定することはできないかもしれない。あるいは、すでにダムの底に沈んでしまった可能性も否定できない。
そう考えたのは、ダム下流側の両岸が断崖絶壁の石灰岩壁となっていたからである。谷底付近には洞口っぽいものさえ遠望することができる。その巨大な石灰岩壁は利賀川の下流に向かって、ずっと続いているようだった。この利賀川沿いの林道を下って行きたかったが、午後から河合村の天生峠の方に行く予定だったので、今回は断念した。
利賀川は最初は西から東に流れ、利賀川ダムで真北に流れを変えるが、この北西側に大規模な石灰岩体が広がっているわけである。先にも書いたとおり、林道も通っているので、次回はぜひ洞穴探査に入りたいと思う。
この後、水無の南東にある樽峠を越えて河合村に入り、さらに国道360号線の天生峠を越えて白川村に戻る予定だった。ところが、樽峠が道路工事のため、通行止めになっていた。やむを得ず、もと来たルート──牛首峠経由で白川村に戻り、それから天生峠経由で河合村に行くことにした。
白川村から天生峠を越えて河合村に至る国道360号線は、冬期は全面通行止めとなるが、その冬期というのが10月末から5月末までとのこと。なんと1年のうち、7か月が通行できないのである。1995年5月に行った第1次洞窟探索予備調査では、そのために十分な活動を行うことができなかった。
そして、峠に向かう道路の前半はつづれ折れの続く急勾配で、後半は緩やかなカーブと勾配になる。その後半付近は石灰岩体を横切っているはずなのであるが、やはり山が生い茂っているせいか、今ひとつ石灰岩の露岩や岩壁を確認することはできなかった。しかし、なんとなく石灰岩地帯という雰囲気は感じられた。時間に余裕があれば、十分な探索を行いたい場所であるが、今回は山の観察だけにとどめた。
ちょうど正午過ぎに天生峠の駐車場に到着する。ここで昼食をとり、その後、天生高層湿原を巡る周遊コースを散策する。湿原に到る途中で沢が涸れているところがあったが、あとで石灰岩体を転記した地形図を確認してみると、予想どおり石灰岩地帯であった。ただし、その沢付近で顕著な石灰岩の露岩を視認することはできなかった。この付近も被覆土が厚いのかもしれない。
3時間ほどの散策の後、天生峠駐車場に戻ると、天生高層湿原に開花する高山植物の盗掘(?)を監視するパトロールとおぼしき方々がいらした。話しかけてみると、やはり地元──河合村の方々で、さっそく、この付近に洞穴や湧水などがないかヒヤリングを開始する。すると、「国道360号線を天生峠から河合村側にちょっと下った道路際に昔、鍾乳洞があった。しかし、岩壁をコンクリートの吹きつけで覆ったときに塞いでしまった」という話を聞くことができた。
この情報は前回の第1次洞窟探索予備調査の時にもチラッと聞いた内容だったが、国道360号線が通行止めだったため、具体的な内容までは聞けなかった。今回は現地まで行くことも可能だったので、詳しく内容を尋ねた。その結果、「鍾乳石はあったが、狭くて奥には入れなかった。広げようとしたけど、結局、断念して塞いでしまった」という話を聞くことができた。
さらに「コンクリートで塞がっていても、どのような場所か現地を観察したい」と言うと、その場所を詳しく教えてくれたが、ここで思わぬ情報を得ることができた。「目印として、その場所の道路下で水が湧き出している」というのである。これは相当有望な情報なのではないかと、その話に思わず身を乗り出してしまう。
国道360号線を車で下っていくと、急なヘアピンカーブが2つ連続する場所がある。その下側のカーブ際に駐車スペースがある。これも教えてもらった目印の1つだった。そこに車を止めて、谷をのぞいてみると、河床面は石灰岩の母岩で、両岸とも石灰岩壁だった。それら石灰岩の岩壁には小さい溶食穴や埋没洞口などが見受けられた。谷沿いに少し上流に行ってみると、左岸側の上方から水が落ちてきていた。同時に冷気も吹き下ろしてきていた。
5mほどの小滝をフリーで登ると、水流は小さい土管から冷気とともに流れ出ていた。真上の道路の山側はコンクリートが吹き付けられた壁なので、明らかに石灰岩地帯の湧出口だった。残念なのは国道により元々の湧出口が埋められてしまい、土管から水が出ていることである。そして、土管の大きさは、とても人が入れるほどではない。国道沿いのコンクリート壁といい、この湧出口の土管といい、どちらも新洞へのアタックをはねつけている。
調査のために湧水を採取した後、車で国道沿いに上流に戻ってみると、鍾乳洞があったはずの地点からすぐの場所に涸れ沢の支流があった。その涸れ沢も河床面は石灰岩の母岩であった。日が暮れてきたため、洞穴探索までは行えなかったが、非常に有望そうな印象を受けた。次回の活動では、まず、この付近をメインに活動すべきであると確信できる雰囲気の場所であった。
天生峠駐車場に戻り、高山植物パトロール(?)の方々にお礼を述べて、秋に機会があれば、洞穴探索を行いたい旨を伝えたところ、国道への落石などをしないよう気をつけてやってもらいたいという注意を受けた。その後、白川村の平瀬温泉の宿に向かった。

18日は宿を出ると、すぐに高山に向かった。この日は、もう洞穴探索予備調査は終了にして、基本的には観光日としていた。途中、いくつかの観光名所に寄り道しつつ、高山市内に入り、駐車場に車を止める。徒歩で高山陣屋など市内見学を行う。その後、丹生川村にある観光洞、飛騨大鍾乳洞に向かった。
まず、飛騨大鍾乳洞に入洞する前に断崖絶壁の上にある両面窟に向かった。下の道路から約100m上にある洞口まで延々と階段を登り続けるのである。もちろん、こんなところにある観光洞(入洞無料だが、一応、照明も通路もある)に入りに行く酔狂な観光客はそうそうおらず、上り下りの階段ですれ違う人もいなければ、洞内で鉢合わせする人もいない。
その貸し切り状態の両面窟をゆっくりと見学する。洞穴自体はそれほど奥が深くないが、洞口からは冷気が吹き出していた。ということは、まだ未発見のルートがあり、奥が続く可能性が高い。このような観光ではなく、探検ケイビング入洞する必要を感じた。
その後、大橋コレクションを見学してから、飛騨大鍾乳洞に入洞した。印象は想像していたよりも小さく狭いという感じだった。もちろん、観光洞なので通行が不自由なほど狭いわけではないし、天井が低いわけでもない。ただ、観光化前の自然な状態の洞内状況を推測すると、そういう印象になる。
観光洞の洞壁を観察すると、飛騨大鍾乳洞は観光化にあたり、相当な部分の洞床を掘り下げたようである。もともとは中腰ないしは匍匐前進していた通路を人工的に立って歩けるようにしたようである。最後の方は天然のトレンチ状通路であるが、前半は人工的に掘り下げた箇所が大部分である。
とはいえ、二次生成物の豊かさや美しさは観光洞として十分に見応えがあるのも事実である。通路や階段もよく整備されているので、一般の人が洞穴を体験するにはちょうどよい観光洞かもしれない。ただ、残念なのはお土産に鍾乳石が売られていたことと飛騨大鍾乳洞に関するものがほとんどなかったことである。やはり鍾乳石の販売は控えてもらいたいものである。また、絵葉書でも何でもよいので飛騨大鍾乳洞に行ったという記念になるお土産がぜひともほしい。
なんやかんやで飛騨大鍾乳洞の閉洞まで粘ってしまった。やはり観光洞でも洞穴は楽しいものである。その後、安房トンネル経由で松本に出て、長野自動車道~上信越自動車道~関越自動車道~圏央道というルートで所沢まで帰った。途中、お盆のUターン渋滞に巻き込まれるかと心配もしたが、何事もなく帰ることができた。
今回の活動では、第1次洞窟探索予備調査に較べて非常に多くの情報を得ることができた。この結果を踏まえ、近いうちに本格的な洞窟探索をぜひとも行いたいと思う。そうすれば、それなりの成果をきっと上げることができるものと確信している。

(芦田 記)