1987年5月2日(土)~6日(水)の5日間、PCCとJCC2との合同で、岩手県下閉井郡岩泉町安家において第3次洞窟調査を行った。参加者はPCCより芦田、伊藤、白幡、深田の4名。JCC2より菊池氏と佐藤氏の2人。
初日は、午後3時過ぎに現地に到着した。さっそく氷渡洞の洞内の出水状況を調べるため、下見の入洞をする。左洞と右洞の分岐地点に近づくと水流の音が聞こえてきた。予想していたとおり、氷渡洞の水は完全には涸れていなかった。今回の合宿の目的の1つが氷渡洞最奥部──『龍堰の湖』の調査だったが、この様な状況では、そこまでたどりつくことができないかもしれないという不安を覚えつつ、分岐地点まで来てみると右洞から左洞に流れていく水の量が、それほど多くなかったので、ひと安心する。奥に向かう途中のルートも、あまり水が流れていなかったので、これなら『龍堰の湖』まで行けるかと思い始めたとたんに水量が増えだし、背も立たないような深さになってしまった。この日は下見の入洞だったので、そこで引き返すことにした。
2日目は、JCC2の菊池、佐藤両氏から安家周辺の洞窟地理を教えてもらうことにした。まず、長内沢に案内してもらい、氷渡洞の水の流入口を調査した。上流の流入口には、人間がギリギリで入れる隙間が開いているので、白幡と佐藤氏の2人がウェットスーツを着て、アタックしてみた。しかし、残念ながら行き先の奥は超狭洞になっていて入洞不能だった。下流の方の流入口は、とても人間が入れるようなものではなかったが、一応、その付近を調べてみることにした。すぐ近くの露岩の下に、石灰岩の転石に隠れて小さな裂け目状の穴があり、底の方から水流の音がしていたが、そこに入るには転石をどけなければならず、今回は断念した。このあと、長内沢沿いにある洞窟の位置やとりつきルートをマッピングしながら沢を下った。
長内沢の次は追子沢だった。しかし、ここでは特に調査は行わず、素岩の穴などいくつかの洞窟の位置を確認しただけだった。ついでに江川川沿いの洞窟の所在もマッピングした。
昼食後、岩井窟に向かった。ここは前の第2次調査の時に探検していたが、最奥部の地底湖をウェットスーツを着た白幡と佐藤氏が水中に潜って再調査するために入洞することになった。結果は、ボンベを使った本格的なケイブダイビングを行う必要があるとのことだった。
岩井窟の後は、下戸鎖経由で端神の方へ移動し、端神洞などの所在を確認した。それから台地の上に上がり、付近のカルスト地形を観察したが、被覆土が厚いために平原状になっていることの他は、ほとんど何もわからなかった。
この日の夜、秋田大学ケイビングクラブがやってきて、山小屋で同宿になった。翌日から氷渡洞、坪沢穴の探検を行う予定とのこと。入洞場所、時間のスケジュールを双方で確認しあう。
3日目は、氷渡洞の探検を行った。前々日の下見探検の時に比べて、洞内全般にわたって、ずいぶんと水が少なくなっていたが、背が立たなくなった所まで行ってみると状況は、ほとんど変わりばえしていなかった。仕方なくゴムボートを使って奥に進んだが、『龍堰の湖』まで、あともう少しという所で天井が完全に水没してしまい、そこから先は進めなかった。白幡と佐藤氏がウェットスーツを着ていたので、水中に潜って調べてみたが、やはり行けそうもなかった。
結局、予定していた『龍堰の湖』の調査は断念しなければならなかった。写真撮影と天井付近での新支洞探索を行いながら左洞を戻っていったが、特に新しい発見は何もなかった。
時間が余ったので、右洞の方も探検してみた。洞内の水が吸い込まれている地点から、それほど遠くないホールの洞壁の向こう側で大量の水が流れおちる轟音がしていた。おそらく壁の向こう側には、大きな空間があると思われるが、ディギングで洞壁に穴を開けることは、ほとんど不可能である。渇水期に別ルートを探す必要がある。
4日目は、坪沢穴を降りた。さすがに洞内の規模は雄大そのものであった。空間の広がりといい、二次生成物の大きさといい、もう筆舌に尽くしがたい。探検というよりも探勝という雰囲気で洞内を巡ったため、相当時間をくってしまった。この坪沢穴でも特に新発見はなかったが、次の探検の課題が2つ判明した。1つは氷渡洞との第2連絡口の上にホールがあるように見えたこと。もう1つは最奥部に近い小ホールのオーバーハングした壁の5メートルぐらい上に支洞があったこと。この2点は、ぜひ次回の探検で解明したいと思う。
最終日は帰京についやした。途中、早池峰山の笛貫の滝周辺で洞窟探索を行ったが、残念ながら成果は得られなかった。
(芦田 記)