PCC四半世紀の歩み

ホームページへのアクセスが3万ヒットを達成した記念として、ケイブフェスティバル2001 in 岩泉のポスターセッションで発表した原稿を転載します。(2001年11月7日)

1.はじめに

パイオニアケイビング(以下PCC)は1975年の設立から、すでに四半世紀以上活動を続けてきました。主な活動地域も当初の東海地方から奥多摩へ、奥多摩から奥秩父へ、そして、奥秩父から奥多野へと広がり続けています。
この間、新洞探索を中心に活動し続けてきたPCCは「天の岩戸新洞」、「大ガマタ沢・ケイ谷洞」、「豆焼沢・瀧谷洞」、「石舟沢鍾乳洞」など比較的規模の大きな洞穴を発見することができました。
これら新洞発見のエピソードを中心に、27年間にわたるPCCの活動史とPCCをとりまいていたケイビング界の変遷を、そして、21世紀に懸けるPCCの展望を発表いたします。

2.東海時代(1975年~1981年)

PCC最初の活動は1975年4月に行った「嵩山の蛇穴」へのケイビングです。ただし、このときはまだ正式にPCCとしては発足しておらず、中学時代の同窓生だった芦田(現PCC会長)ほか3人の高校生が吉井良三先生の著書、「洞穴から生物学へ」に触発されて物見遊山で出かけていっただけでした。
しかし、「嵩山の蛇穴」への入洞で、ケイビングへの興味をかきたてられた4人の高校生は、この年の夏に「佐目の風穴」、「覆盆子洞」と、さらに2つの鍾乳洞へのケイビングを行いました。すっかりケイビングの虜となった4人は、ついに洞穴探検クラブを設立しようと思うようにまでなりました。
そして、この年の冬休み、メンバーが集まり、正式にクラブを立ち上げるため、会合を開きました。「洞穴から生物学へ」を読んで、洞穴に入いることを「ケイビング」というらしいことを知った4人は、クラブの名前を「○○○○ケイビングクラブ」するということまでは意見の一致を見ました。しかし、問題は「○○○○」に入る名称でした。
侃々諤々(かんかんがくがく)の大論争が続き、いつまでたっても決まる気配がありませんでした。誰もが納得できる名称がなかなか出てこなかったのです。もういい加減疲れ果ててきたとき、後に初代会長に就任することになるMが「パイオニア」という名称を提案しました。
全員一致で決定でした。その瞬間、「パイオニアケイビングクラブ」が正式に発足したのです。もんろん、この当時、「パイオニア」の意味的なものについては、それほど深くは考えていませんでした。「なんとなくかっこいいかな」という程度で名付けただけでした。しかし、その後のPCCの活動を見てみると、なんと、ふさわしい名前をつけたものだと、感慨を抱かざるを得ません。このとき、すでにPCCの歩む道は決まっていたのかもしれないと思うのは考えすぎでしょうか。
ちなみに、このとき、ケイビングの語源を確かめなかった4人は、ケイビングの頭文字は「K」だと単純に思いこみ、クラブの略称を「PKC」としていました。もちろん、すぐに気がついたのですが、すでにヘルメットにはしっかりと「Pk」マークのペイントが……これはPCC史上に燦然と輝く笑点なのです(笑)
翌年から翌々年にかけては、「鷲嶺の水穴」、「天の岩戸」、「猿田彦の風穴」、「石大神の風穴」、「鷲嶺の水穴」、「佐目の風穴」など、地誌に載っている洞穴にケイビングを行いました。この間にメンバーはケイビングの技術と装備について、知識と経験を積んでいきました。
メンバーが高校を卒業し、それぞれ大学に進学した後もPCCは順調に活動を続け、活動範囲も東海地方から関東地方の奥多摩へと広がりました。1978年にはクラブの活動やケイビングに関する情報を発信するPCC会報「パイオニアケイビング」を創刊します。この会報は、その後、発行回数50回を数え、現在はインターネット上のホームページにその役割をバトンタッチしています。
さらに、この年、奥多摩の「三又洞」閉鎖事件をきっかけに、PCCはケイビング界へのメジャーデビューを果たします。それまではPCCはどこのサークルとも交流せず、単独で活動してきたのですが、日本ケイビング協会と接触し、自分たち以外にも多くのケイバーが活動していることを初めて知ったわけです。そして、翌年には日本ケイビング協会に団体会員として加盟することになります。
日本ケイビング協会に加盟し、いくつものケイビングサークルと接触したPCCは、それまでの友だち集団からケイビング集団へと確実に変化していきました。クラブの会則も定められ、はっきりとした役割分担も決められました。初代会長にMが、事務局長に芦田が、調査局長、広報局長にもそれぞれメンバーが就任しました。
1980年には、東海地方で活発に活動していた三遠洞くつ研究会の本馬静也会長と知り合い、洞穴に関するいろいろな話を伺うことができました。さらに三遠洞くつ研究会との合同ケイビングを行う機会も得ることができ、新洞探索のおもしろさを教えていただきました。この本馬会長との出会いがなければ、現在のPCCの方向性は確立されなかったかもしれません。
1981年、この年はPCCにとって記念すべき年です。今日のPCCの活動方針が確立した時でもあります。伊勢で300m級の新洞、「天の岩戸新洞」を発見し、前人未踏の洞穴に入洞する素晴らしさを初体験したのです。このときの新洞発見、新洞入洞の経験が、その後のPCCの歩むべき道を決定づけました。
この「天の岩戸新洞」発見以降、PCCは新洞探索を活動の中心にすえ、20年にわたる活動で1000m級、3000m級、700m級の大洞穴と数多くの小洞穴を発見することになるわけです。PCCの活動を見ていただけるとわかると思いますが、「洞穴探査」が非常に多いことに気づかれると思います。ケイビングクラブではなく、山狩りクラブと言ってもいいくらい、洞穴探索を行ってきています。

3.奥多摩時代(1982年~1994年)

1982年になると、主力メンバーの大学卒業、就職にともない、PCCの活動域は東海地方から関東地方に移動することになります。そして、それまで中学校の同窓生、あるいは高校、大学で知り合った仲間だけで活動していたPCCは新聞や雑誌の仲間募集欄でメンバーの公募を開始し、社会人サークルとしての第一歩を踏み出しました。
この頃、PCCは奥多摩を中心に活動を行っていました。それは奥多摩に「倉沢鍾乳洞」、「小袖鍾乳洞」群、川乗谷洞穴群(「聖穴」、「ちょうちん穴第一洞」、「ちょうちん穴第二洞」)と比較的規模の大きな洞穴が数多く存在したのと、電車やバスなどの公共交通機関で簡単に通うことができたからです。この当時は、メンバーの誰も車を持っていなかったのです。
これらの中でも、とくに活動のメインとなったのは「倉沢鍾乳洞」でした。一時は毎週のように通っていました。大雨が降ろうが大雪が降ろうが通い続けていました。結局、「倉沢鍾乳洞」での探検ケイビングは50次を越える回数となり、その甲斐あって、いくつもの新支洞を発見することができました。最奥部~ひょうたん池支洞の連結ルート、「第一下層部新洞」、「第二下層部新洞」(水晶池)、「奥の院」ルート、「上層部新洞」などです。
また、「倉沢鍾乳洞」周辺での洞穴探索も精力的に行いました。そのおかげで「倉沢のもぐら穴」、「御神仏の穴」、「小白竜窟」など数多くの新洞を発見することができました。とくに「小白竜窟」は尋常ではない風の吹き出し(夏季)、吹き込み(冬季)があり、ディギング作業による最奥部突破での新洞発見が期待されています。
さらに「倉沢鍾乳洞」周辺以外でも洞穴探索を行い、いくつかの洞穴を確認しています。大沢や川乗谷、日原川上流域などです。PCCでは、この時期に基本的な洞穴探索の技術が確立され、現在に至っています。ただ、残念ながら、奥多摩においては際だった成果を上げることはできませんでした。
そんなとき、明治大学地底研究部が出した「埼玉県洞穴地域調査報告書[大滝村編 第1号]」と埼玉県文化財保護課が発行した「埼玉の鍾乳洞」という2つの報告書を入手することができました。それらにより、奥多摩だけでなく、奥秩父にも多数の洞穴があることが判明しました。
奥多摩と奥秩父。出かけていくルートが違うので、一見、地理的には離れているように思える両地域ですが、地形的には雲取山の北部域(奥秩父)と南部域(奥多摩)であり、地質的に完全につながっていることは歴然でした。それにもかかわらず、奥秩父には奥多摩で知られているような規模の大きい洞穴が1本もありませんでした。
奥多摩には1000mを超える穴が「三又洞」、「日原鍾乳洞」、「倉沢鍾乳洞」、「小袖鍾乳洞」群(すべて合わせて)の4本、500m以上なら、「青岩鍾乳洞」も加わって5本もあります。ところが、それらの資料によると、奥秩父にある洞穴は総延長100mの「十文字鍾乳洞」が最大のもので、他の洞穴はいずれも50m前後しかありませんでした。
地形的に雲取山の北と南というだけで、洞穴の規模に、これほどの落差が生じるものでしょうか。ふつうに考えればあり得ないことです。当然の帰結として、じつは奥秩父の大規模洞穴は「存在しない」のではなく、「知られていない」だけなのではないかという結論に達します。というわけで、新洞発見をめざしていたPCCは活動地域を奥多摩から奥秩父へのシフトすることになりました。

4.奥秩父時代(1984年~1998年)

この頃になると、創設時のメンバーが次々にリタイヤし、当初から続けているのは芦田だけになりました。それにともない、会長職は創設時メンバーのMに代わって、「歩く竪穴装備」とあだ名されたFが就任することになりました。ここにPCCは、名実ともに中学時代の友人グループからケイビングを愛好する社会人サークルへと生まれ変わったのです。
活動範囲を奥秩父に移動したばかりの頃は資料に載っている洞穴を巡るだけでしたが、大滝村の大血川周辺に広がる石灰岩地帯を確認した以降は、しだいに洞穴探索への比重が増していき、「大血川新洞右洞」、「横岩沢鍾乳洞」、「横岩沢の水穴」などの新支洞、新洞穴を続けさまに発見することができました。
さらに翌年の1985年には「向かい谷新洞」、「白岩沢鍾乳洞」群などの新洞穴も見つかり、活動範囲を奥秩父にシフトしたことが大正解だったことを確信しました。1986年にはメンバーの1人が車を持ち、ついに公共交通機関で行ける範囲という制約からも解放され、PCCの活動範囲は一気に奥秩父全域に拡大します。そして、それは輝ける黄金の時代の到来の幕開けでもありました。
さっそく、「奥秩父にも奥多摩並みの洞穴を!」を合い言葉に、洞穴がありそうだと思える場所をリストアップし、奥秩父山中を車で巡ることになりました。ところがなんと、その第1回目の洞穴探索で、念願の大規模洞穴を引き当ててしまったのです。そのおかげで、リストの2番目以降の場所への洞穴探索は後回しになってしまいました。
「大ガマタ沢・ケイ谷洞」──それがPCCが最初に見つけた1000m級洞穴に冠した名前です。PCCの新洞穴命名基準は基本的に地名+特徴です。その基準からするならば、「大ガマタ沢鍾乳洞」となるべきでしょうが、このとき、特例として、1000mを超える新洞穴には恣意的な名称をつけてもよいということにしてしまいました。
標高1500mという、水流がある洞穴としては日本一高い場所に存在する「大ガマタ沢・ケイ谷洞」の探検、測量は在京の大学探検部、他のケイビングサークルなどの協力を得て、1988年まで続けられました。なにしろ奥秩父の長野県境に近い山奥ですから、行くだけでも大変な労力を必要とします。そのため、「大ガマタ沢・ケイ谷洞」のほとんどの活動がナイトケイビングにならざるを得ませんでした。
もちろん、この間、「大ガマタ沢・ケイ谷洞」だけにかかわっていたわけではなく、ひみず会が行った「河内風穴」調査や「青岩鍾乳洞」Aプロジェクトなどの洞穴探検、調査、測量活動に参加したりもしていました。また、1989年には奴奈川プロジェクトが行った「福来口洞窟」の探検、調査、測量活動に参加して上層部新洞の発見にも貢献しました。そして、この年の秋、PCCは奥秩父で2つめの1000m超級の洞穴を見つけることになります。
「豆焼沢・瀧谷洞」──再び、命名に特例措置が適用されました。洞口付近の形状から、発見当初は関東最深の縦穴と思われていた洞穴でしたが、探検が進むにつれ、何層もの横穴が続いていることが確認されて、高低差160m以上、測線延長2500m以上の、関東でも有数の大洞穴であることが判明しました。
大滝村より正式に調査委託を受けたPCCは「大滝プロジェクト」を創設し、再び在京の大学探検部、他のケイビングサークルの協力を得て、1990年から1992年にかけて3年間、「豆焼沢・瀧谷洞」の探検、調査、測量に専念することになたました。この間、他に行った活動は、雪に閉ざされて「豆焼沢・瀧谷洞」に行けなかった時期に出かけた3回のケイビングのみです。
「豆焼沢・瀧谷洞」の探検、測量、調査が一段落した1994年、PCCは新たな洞穴を求めて、奥秩父での洞穴探索を再開します。探索すべき場所は山のようにあるにもかかわらず、探索する人数は限られているため、洞穴の見つかる可能性が高い場所をいかにうまく選びだすかがポイントでした。そして、その年の秋、三度当たりくじを引き当てることに成功します。
その場所は大滝村中津峡の支流、石舟沢にある「石舟」と呼ばれる石灰岩地帯でした。言い伝えによると、その昔、「石舟」には武器を隠した岩屋があったとのこと。現地に出かけてみると、確かに「石舟」の左岸に洞穴が2つ開口しています。もちろん、一目見て洞穴とわかるものが開口しているわけですから、そんな長い洞穴ではありません。ちゃんとした石灰洞ですが、奥行き20mほどで、岩屋のようなものです。
一方、右岸側には比較的大きな石灰岩壁が切り立っています。顕著な洞口は見あたらないものの、岩の隙間から入れる洞穴はあります。そして、そこからは冷たい風が吹き上げてきています。そこが「石舟沢鍾乳洞」と命名することになる700m級洞穴の入り口でした。
こうして、PCCは奥秩父で10年間にわたって洞穴探索を続けた結果、1000m級、3000m級、700m級の洞穴を次々に発見するという幸運に恵まれました。しかし、この3洞穴だけでは500m超級の洞穴が5本もある奥多摩にまだ追いついてはいません。少なくとも1000m級が、あと1~2本は存在しないと帳尻が合いません。というわけで、PCCにとり、奥秩父で新たな1000m級洞穴を発見することは最重要課題になっています。

5.奥多野時代(1998年~)

1998年、関東ケイバーは冬の時代を迎えます。これまで関東ケイバーがホームグラウンドとして通い続けていた「小袖鍾乳洞」、「倉沢鍾乳洞」が「危険」という理由で、相次いで入洞禁止の措置がとられたのです。これにより初心者が気軽に入れる、ある程度の規模をもった洞穴は奥多摩の「ちょうちん穴」と奥秩父の「石舟沢鍾乳洞」の2本だけになってしまいました。
ちょうど同じ頃、上野村教育委員会より「神流川の南側だけでなく、北西に延びる矢弓沢にも洞穴がある」という情報を得たPCCは洞穴探索の範囲を奥多摩、奥秩父から奥多野まで広げることにしました。奥多野地域には観光鍾乳洞として「不二洞」や天然記念物の「生犬穴」などが知られていますが、いずれも神流川南部にあります。神流川北部には、これといった洞穴は、この時点では知られていませんでした。
さっそく、矢弓沢に出かけたところ、予想以上の石灰岩地帯であることがわかりました。全山石灰岩の皆戸山をはじめ、周辺には石灰岩の岩峰がいくつも確認できました。さらに関東ケイバーからは、すっかり忘れ去られていた300m級の洞穴、「矢弓沢洞」をも確認でき、これを30年ぶりにケイビング界へ再デビューさせることができました。
これで一応、関東の初心者ケイバーが通える洞穴が3本に増えたわけですが、この「矢弓沢洞」にしろ、奥秩父の「石舟沢鍾乳洞」にしろ、山奥過ぎて公共交通機関では行くことは困難です。車を持たない大学探検部には非常に通いづらい洞穴です。練習ケイビングのフィールド不足は、当然のことながらケイビング人口の減少につながります。
また、PCCも1990年代後半より主力メンバーが結婚や転職(Uターン)などで次々とリタイヤしてゆき、活動戦力が大幅に低下してしまいました。こういった人的資源の枯渇も、即、活動の停滞につながります。そこで起死回生の策として、ケイビング界の外から広くメンバーを募集するためにインターネット上にPCCのホームページを開設することになりました。
その甲斐あって、活動的なメンバーが次々にPCCに加わり、再び洞穴探索を継続的に行えるようになりました。そして、2001年の春、関東ケイバーの「春の時代」到来を目指して、奥多野で継続していた洞穴探索により、地元の集落でしか知られていなかった「荒神穴」を確認し、さらに地元の人たちも知らなかった最奥部へのルートをも発見しました。まだ、測量に着手していませんが、「荒神穴」の測線延長が200mを超えることは確実と思われます。

6.おわりに

このように活動の半分近くを「ケイビング」ではなく、「洞穴探索」に当ててきたPCCですが、今後もその方針に変わりはありません。山のようにある奥多摩、奥秩父、奥多野の洞穴探索候補地を片っ端から、しらみつぶしにしていく予定です。ただ、現在のPCCは非常に多くの宿題を抱えた状態でもあります。
「豆焼沢・瀧谷洞」や「大ガマタ沢・ケイ谷洞」の全貌は未だにつかみきっていませんし、「大ガマタ沢・光岩洞」、「白岩沢鍾乳洞」、「荒神穴」などの探検、測量も早急に行わなくてはなりません。これらの活動は到底PCC単独で行えきれるものではなく、多くのケイバーの協力を必要としています。今後も活動の成果を広く公開しいく方針なので、何か興味のあるものがありましたら、ぜひ、その活動に加わってください。
それでは最後に一言。「人に知られた大きな洞穴よりも、小さくても人に知られていない洞穴」──ケイバーにとり、これほど素晴らしいものはありません。